学校日記

【10月6日】私の母[ep3]

公開日
2020/10/06
更新日
2020/10/06

Kのつぶやき

 (10月5日の「ひとりごと」の続きです)
 それから3年後(2008年)、私は2年生の担任をしていました。母は、前回の手術後も再手術を含む入退院を繰り返しました。病魔は確実に母の体を蝕んでいました。あれは、合唱の練習が始まった9月30日の夕方のことでした。父親から電話があり、「今、家で倒れて危ない状態。救急車を呼んだ。すぐに帰ってきてくれ。」私は、慌てました。バタバタと片付けをして急いで帰宅しました。家の前には救急車が止まったままでした。だいぶ時間が経っているはずなのに・・・。搬送先の病院が見つからなかったのです。かかりつけは久留米でしたが、そちらにも受け入れが厳しいとのこと。やっとのことで、搬送先が決まり、救急車は出発しました。集中治療室に入りました。私はただ祈るだけでした。なんとか命は取り留め、次の日には目を覚ましました。ほっとしたのもつかの間、数日間の検査のあと、病院の先生に家族が呼ばれました。
 「もう手の施しようがありません・・・」
 私は絶望感でいっぱいでした。それと同時に「信じたくない!夢であってくれ!」と奇跡を信じ、そして回復を願いました。
 私の母はとても明るく「笑顔、笑顔」と「感謝、感謝」が口癖でした。そして、「起こることには意味がある。いいことも悪いこともすべては自分のため」そして、「苦労は買ってでもしなさい」と、私たち子どもにも言っていました。ですから、入院中も起きているときは、「ガンなんかには負けんよ!」と笑顔で言っていました。 
 しかし、母は、日に日に弱っていきました。入院後2週間後くらいには、母はもう目を開けることもなくずっと眠っていました。私は、ただ母のそばにいるだけでした。ふと、母の声が聞こえた気がしました。気のせいかと思いましたが、よく見ると母の口が動いていました。母の顔に耳を近づけると、「何でこんなことになったんかねぇ−。悔しかぁー」とささやくような声が聞こえたかと思うと、母の目から涙がつたっていました。私は「お母さん!」と呼びかけましたが応答はありませんでした。「悔しかぁー」と言った母の思いを察し、私はその日の帰り道、涙で前が見えなくなるほど泣きました。車を止め、ずっと泣きました。涙ってこんなにもでるものなのだと思いました。母の病院に通った3週間、私は何度となく泣きました。車の中で泣き、家に帰って一人で泣き、自分でも恥ずかしいくらい泣きました。何とかできないか、何とかしてあげたい、もっとこうしておけば・・・後悔しても後悔してももうどうにもならないことはわかっていましたが、それでも「奇跡」を信じ続けました。しかし、願いは届かず、10月21日に家族にみとられながらこの世を去りました。ちょうど70歳でした。
 母の通夜には350人以上の方が、葬儀には150人以上の方が弔問に来てくださいました。こんなにたくさんの方に見送っていただいて母は幸せだったと思います。70年間の人生を、人が喜ぶことを一番に考え、人のために尽くした母。やはり、母は偉大でした・・・(ep4に続く)