【7月29日】苦難を乗り越え
- 公開日
- 2021/07/29
- 更新日
- 2021/07/29
Kのつぶやき
本日の西日本新聞「春秋」からです。
北米には十数年に一度、大発生するセミがいる。周期は17年と13年。狭い地域で数億匹が一斉に出現するので、天敵から逃れる確率が高まり、多くの子孫を残せる。普通のセミよりはるかに長い年月を地中で耐え、光あふれる地上に出たら、約2週間の短い命を燃やし尽くす。周期は、厳しい氷河期を生き延びるために神様にもらった知恵のようにも。
13年間の苦しい時期を耐えて光り輝いた。ソフトボールの上野由岐子投手(39歳、福岡市出身)。絶対的エースは東京五輪のマウンドでも力投し、日本に金メダルをもたらした。2008年の北京五輪。上野投手は決勝トーナメントの3試合を一人で投げ抜き、優勝に導いた。剛速球で打者をねじ伏せる姿は「上野の413球」として伝説となった。だが、そこからソフトは厳しい「氷河期」に。続く2大会は五輪種目から外れたからだ。上野選手も「燃え尽き症候群」に陥り、一時は競技を続ける気力を失いかけた。希望の光が見えたのは20年の東京大会。ソフトが復活した。19年春、上野選手は打球を受けてあごに大けがをした。苦しいリハビリの中で思った。「(北京五輪後)惰性でやっていた。このままじゃ駄目だと神様が教えてくれた」。気持ちを立て直し、東京大会の1年延期にも闘志は揺るがなかった。13年分の思いを燃やし尽くした今大会。円熟の投球で競技者としての集大成を見せてもらった。
ソフトボール決勝戦の平均視聴率は23%、瞬間最高視聴率46%だったそうです。それぐらいに注目度の高い試合でした。私は、終盤しか観ることはできなかったですが、日米ともに気迫のこもった最高のプレーに、感動しました。何より、上野選手の凄さ、偉大さを改めて感じた試合でした。
上野選手が北京五輪後に「燃え尽き症候群」になっていたことを私は、以前放送されていたテレビ番組を観て知りました。「何のためにソフトボールをしているのか」「このままでいいのだろうか」と目標を失い、迷走していた昨年4月、あごに打球を受け、下顎骨骨折で全治3ヶ月と診断されました。食事は、鼻からチューブを入れ、胃に直接流し込む生活。流動食に変わっても食欲はわかず、体重が5キロも減ったそうです。上野選手は「このケガは、ソフトボールをいい加減な気持ちでやっていた自分に、“本気でやれ!”“目を覚ませ!”と神様が教えてくれたんだと思う」と言っていました。
リハビリとトレーニング続けていた昨年7月、上野選手は福島を訪問しています。被災地を訪れるのはこれが初めてだったとのこと。そのとき、復興の実態を知ることになります。そして、昨年7月22日、本来ならば「福島あづま球場」にて“復興”五輪が始まるはずだった日、その試合開始予定だった午前9時に、マウンドに立ってキャッチボールをしたのです。これらのことを踏まえて上野選手は、「人間の強さを感じた、自然の強さも感じた、福島にパワーを貰えた。その恩返しとして来年はマウンドに立ちたい。五輪の意義を知った」と語り、今までの迷いが打ち消され“覚悟”を決めたのです。上野選手は昨年8月実践復帰を果たすのです。
上野選手は、中学時代に全国優勝投手として、高校にも鳴り物入りで入学します。それだけの投手なら、“でんぐ”になることもあるのではと思いますが、上野選手は違ったそうです。部活では、真っ先にグラウンドに現れ、率先して重いボールかごを運んでいたとのこと。「決して“てんぐ”になることはなかった」と、3年間担任をされた先生が語ってあります。
すべての経験や困難を自分の力として、上野選手は今年7月22日のマウンドに立ち大会をスタートさせました。そして、27日決勝戦でも先発し、6回のみ後輩の後藤投手に任せ、7回最終回のマウンドに再び立ったのです。あとは、皆さん知っての通りの最高のピッチングをしてゲームセット。日本に金メダルをもたらしたのです。試合後に宇津木監督と抱き合い、上野選手は一気に涙が溢れます。私たちには計り知れない二人のとても深い信頼関係があったのだと思います。
ちなみに、上野選手は高校の後輩達にこんな言葉を残しています。
「できないことをなげくより、できることに感謝しながら・・・」
「強い弱いは執念の差」
上野選手は、どんなときも“感謝”の気持ちを忘れませんでした。迷うことはあっても謙虚さと感謝の気持ちを持ち続け、努力することの素晴らしさを私たちに教えてくれたのだと思います。私たちに元気と勇気、そして希望を与えてくれた上野選手、そして日本チームに心から感謝します。“優勝”、本当におめでとうございました!