【4月21日】叱ること
- 公開日
- 2022/04/21
- 更新日
- 2022/04/22
Kのつぶやき
昨日の夕方、私がバレーボール部の監督として初めて関わった子が、32年ぶりに、奥様とともに私を訪ねて来てくれました。突然のことにたいへんびっくりするとともに、嬉しい気持ちになりました。中学生の子をもつ親としての彼と久しぶりに話をしながら、時の流れの早さを感じずにはいられませんでした。
当時、学校はたいへん荒れていました。大げさではなく、命がけで毎日の仕事をしているような状況でした。そんな中で、私は彼らの代の子たちの担任をし、彼らとともに過ごしてきました。まだ若造だった私は、彼らと全力でぶつかり、がむしゃらにやってきました。バレー部のキャプテンだった彼は、私からもたいへん叱られた子です。きっとイヤでイヤでたまらなかっただろうなと思います。しかし、彼はこう言うのです。
「先生にはめちゃめちゃ叱られましたし、鍛えられました。おかげで、小さなことには動じないし、たくましくなったと思います」
私に気を遣いながらだとは思いますが、そう話してくれました。若かった私は、よくわかっておらず、理不尽なこともたくさんあっただろうと思うのに、彼は「おかげさまで…」と言ってくれたのです。その当時のことをすべて正当化するつもりもありませんが、彼らと必死で毎日を送ったことは私の誇りでもあります。そして、そうやって、30年以上経って尋ねてきてくれて、「前々から挨拶に行こうと思っていたのですが、遅くなってしまいすみませんでした」と言うのです。最後に、「またそのうち伺います。ありがとうございました!」と笑顔で帰っていきました。来てくれた彼に本当に感謝した私でした。
松下幸之助さん著『道をひらく』の「責任を知る」からです。
おたがい人間、叱られるということは、あまり気持ちのよいものではない。自分に非があったと認めていても、叱られるということはやはりいやである。だから、叱られるよりも叱られないほうを好みがちで、これは一つの人情でもある。
また叱るほうにしても、あまり気持ちのよいものではない。うれしい思いはしない。だからできれば叱らないにこしたことはないわけで、これもまた一つの人情といえよう。
しかし、人情と人情がからみ合って、マアマアのウヤムヤにすぎ、叱りもしなければ叱られもしないということになったらどうなるか。神さまならいざ知らず、おたがい人間である。知らず知らずのうちに、ものの見方考え方が甘くなり、そこに弱さと、もろさが生まれてくることになる。
もちろん、私情にかられてのそれはいけないけれども、ものの道理について真剣に叱る、また真剣に叱られるということは、人情を越えた人間としての一つの大事なつとめではあるまいか。叱られてこそ人間の真の値打ちが出てくるのである。叱り、叱られることにも、おたがいに真剣でありたい。
叱られるとき、決して嬉しい気持ちはしないし、できれば叱られたくないと思います。叱る側もできれば叱りたくないと思います。自分自身のことを振り返ってみても、朝から叱ったりすると、一日気分が滅入ることもありました。ですが、時には叱ること、叱られることは大切だと私は思います。人と人とが真剣に向き合い、いいときはしっかり褒める、共に喜ぶ…逆にいい加減なことをしたときなどには、周りが注意したり叱ったりすることも必要だと思います。
私も今までたくさん叱られてきました。でも、振り返ってみて、イヤだったことより、有り難かったと思うことが多いです。たくさんの先生方に「気づき」をいただきました。教師になってからも叱られました。おかげで、甘えた自分に気づき、次の頑張りへの活力となりました。
昨日、会いに来てくれた彼が、こんなことを言っていました。
「先生達もたいへんでしょう?叱ることすらできなくなってるんじゃないですか?僕の会社でもそうです。“指導”というか、教えているつもりなのに、“これってパワハラじゃ?”なんてことにもなりかねません。そして、ちょっとでもきつかったら仕事が続かず、すぐに会社を辞めていく子も多いです」
卒業生と話しながら、いろいろと考えさせられました。皆さんは、どう思いますか?