学校日記

【5月9日】履物を揃える

公開日
2022/05/09
更新日
2022/05/09

つぶやき

 『茗荷村(みょうがむら)』という名前を聞かれたことはありますか?私は知らなかったのですが、調べてみるとこんなことが載っていました。
 『茗荷村』は、障がい児(者)教育の先駆者の一人である田村一ニ(たむらいちじ1909〜1995年)が、その長年の実践から福祉や社会のあるべき姿を世に問うた小説『茗荷村見聞記』(1971年)に端を発しています。やがてこの小説は映画化されました。これを機に「茗荷村を現実に」という動きが全国に拡がり、発足した茗荷会に相呼応して、地元行政や地域の方々の支援の下 、1982年滋賀県東近江市に開村しました。『茗荷村』は現在、高齢者や障がい者のグループホーム、障がい者就労支援サービス事業所など、その活動は山からふもとへ、そして近隣の市町村へとひろがっています。
 その田村一二さんの言葉が、『生き方の教科書』にタイトル「履物(はきもの)並べから学んだ人生観」として載っていましたので紹介します。

 私は六人の息子をもっているわけですが、彼らが小さいとき、どうしても履物をきちんと揃えられなかった。叱っても、そのときはそろえるが、すぐに元通りに戻ってしまうのです。それで、私が尊敬する糸賀一雄(いとがかずお)先生にお尋ねしました。
「しつけとはどういうことですか」と。先生は「自覚者が、し続けることだ」とおっしゃる。「自覚者といいますと?」と聞くと、「それは君じゃないか。君がやる必要があると認めているんだろう?それなら君がし続けることだ」「息子は?」「放っておけばいい」というようなことで、家内も自覚者の引っ張り込みまして、実行しました。
 実際にやってみて、親が履物を揃え直しているのを目の前で、息子がバンバン脱ぎ捨てて上がっていくのを見ると、「おのれ!」とも思いました。しかし、糸賀先生が放っておけとおっしゃったのですから、仕方ありません。私は叱ることもできず、腹の中で、「くそったれめ!」と思いながらも、自分の産んだ子どもであることを忘れて、履物を揃え続けました。
 すると不思議なことに、ひたすら揃え続けているうちに、だんだん息子のことも意識の中から消えていって、そのうちに履物を並べるのが面白くなってきたのです。外出から帰ってきても、もう無意識のうちに、「さあ、きれいに並べてやるぞ」と楽しみにしている自分に気づきました。
 さらに続けていると、そのうちに、そういう心の動きさえも忘れてしまい、ただただ履物を並べるのが趣味というか、楽しみになってしまったのです。それで、はっと気がついたら、なんと息子どもがちゃんと履物を並べて脱ぐようになっておりました。孔子の言葉に「これを楽しむ者に如(し)かず」というのがありますが、私や家内が履物並べを楽しみ始めたとき、息子はちゃんとついてきたわけです。
 私事で恐縮ですが、ここに教育の大事なポイントが一つあると思います。口先だけで人に、「こら、やらんかい」とやいやい言うだけでは、誰もついてきません。自分が楽しんでこそ、人もついてくるんだという人生観を私は履物並べから学んだ次第です。

 御陵中には「しつけの三カ条」なるものがあります。その中にも「脱いだ履物を揃える」という項目があります。自分の履物だけに限らず、トイレなどのスリッパなどを含め、履物を揃えることは、次の人のことや相手のことを思いやる気持ちの表れなのだと思います。要するに「相手意識」なのです。そのことを子どもたちに身につけさせるには、私たち大人がまずは楽しむくらいし続けることが、子どもたちへの“しつけ”へと繋がっていくということを教えてくれてるのだと思います。
 御陵中の子どもたちは、昇降口の靴を毎日きちんと並べてくれています。さて、家や外ではいかがでしょうか?できていますか?もし、できていないとすればまだホンモノではなく、“させられている”という意識なのかもしれません。では、そこを変えるには?…やはり、私たち大人が当たり前に“し続ける”しかないのかもしれません。もちろん、時には「教える」「話をする」ことも大事です。ですが、やはり私たち大人が“口先だけ”の大人にならないようにしなければと思うのです…