学校日記

【7月4日】じっくりと見ること

公開日
2022/07/04
更新日
2022/07/05

つぶやき

 昨日までで、筑紫区中体連大会がすべて終わりました。子どもたちは本当によく頑張りました。特に、3年生の皆さんが仲間を鼓舞し闘志むき出しで戦う姿に、頼もしさと大きな成長を感じました。筑前地区大会に残っている選手の皆さんは、更なる健闘を願っています。それと同時に、引退となった3年生は自分の進路実現という目標に向かって、新チームで始動する1・2年生はまた新たな目標を立て粘り強く取り組んでほしいと思います。いつも言っていますが、どう頑張るか、どれだけ頑張るかが大事だと思います。御陵中生のこれからのますますの活躍を期待しています。
 これまでの練習や大会等において、多大なるご理解とご協力をいただきました保護者の皆様には、心より感謝いたします。本当に、本当にありがとうございました!

 さて、エッセイストの松浦弥太郎さんの『伝わるちから』という本があります。その中に「見ることは気づくこと」というところがありますので、抜粋します。

 何をしているのが好き? と聞かれると、見るのが好きと答える。僕は景色でも人でも出来事でも、何でも見るのが好きです。きれいなものは一日中でも見ていたい。それは好奇心やあこがれのまなざしであり、見るものから拡がる想像の楽しみでもある。
 随筆家の白洲正子(しらすまさこ)は『心に残る人々』で「本当に見るとは、かくれたものを引き出すことであろう」と書いている。その言葉を読んだ時、僕は、やっぱりそうだ、その通り、うんうん、と膝を打った。
 見るというのは、見えているものを単に目に写してわかったつもりになるのではなく、ぱっと見では見えない、かくれているきらきらした輝きを、いかによく見て発見するかである。素敵なことや美しいこととはそうやって見つけるものだと思っている。そしてまた、この世にたくさんある、目をそむけたくなるようなものや、美しくないものにも、必ずどこかに、きらきらした輝きはある。僕はそう信じていて、先入観にとらわれず、決して目を閉じないように気をつけている。きらきらした輝きが見えるか見えないかは自分次第である。
 もちろん、何も見えないときもある。けれども、見えないからといってそこには何もないと決めずに、自分の目をもっと磨いて、いつかよく見えるようになりたいと思う。
 たとえば、「ものに寄せる心」というきらきらした輝きがある。人がものを大切にする気持ちであったり、ものをていねいに扱う仕草であったり、身につける嬉しさや喜びであったり、ものの良さを生かした工夫であったりと様々で、ものをものとするだけでなく、あたかも友だちのようにふれ合うようなことともいえるだろう。
 よく、身の回りのものに「〜ちゃん」とか「〜さん」とか付けて親しむ人を、子どもっぽいとかいうことがあるけれども、僕は日本人の良いところのひとつだと思っている。心を込めて作る。心を込めて使う。心を込めて味わい、深く親しみ、心から感謝するという気持ちは、いつもまでも失いたくはない。ものにかくされているものとは、まさに人の心であり、いのちの光であり、いわばそれは僕たちがセンスと言っている、どきどきする心の感動なのだろう。…(中略)…
 よく見るということは、誰にでもできる学びであるとつくづく思う。僕は、見るとは、「気づく」ということだと、最近ようやくわかった。

 サン=テグジュペリの『星の王子さま』の中でも出てくる“かんじんなことは目には見えない”という言葉にも通じるものです。また、以前ベストセラーとなった『EQ〜こころの知能指数』の中で、アメリカの心理学者ダニエル・ゴールマンは、“目に見えないものの大切さ”をテーマにし、“考える知性−IQ”に引っかけて、“感じる知性−EQ”の大切さを訴えました。さらに最近では、教育学者の中山芳一さんが、『非認知能力が子どもを伸ばす』という著書の中で、学力テストなどで計ることができる認知能力やその他の力を伸ばすためにも、目に見えない(見えにくい)非認知能力を育てることが大切であることを述べています。このようにたくさんの方々が、目に見えないものや非認知能力の大切さを訴えています。
 子どもたちは、部活動をはじめ様々な活動や関わりの中で、テストでは計りにくい「非認知能力」を伸ばし続けています。それは、これからも人として生きていくときにとても大切な力です。たとえすぐに結果に表れなくても、大切なことを学び続けています。そして、子どもたちも私たちも、目には見えない大切なものをじっくりと見ようとすること、探そうとすることが、自分の学びとなり、力となっていくのだと思います。