学校日記

【10月5日】人柄

公開日
2022/10/05
更新日
2022/10/05

Kのつぶやき

 一昨日、日本のプロ野球界では、偉業が達成されました。ヤクルトの村上宗隆選手が、年間56本のホームランを放ち、“世界の”王貞治さんが記録していた不滅の記録を抜いたのです。同時に打率、打点もトップとなり、史上最年少の三冠王となりました。王さんの「55」本の記録は1964年。以来たくさんの強打者が挑んでも乗り越えられなかった記録を、22歳の若者が58年ぶりに塗り替えたのです。
 55号ホームランを放ったのが、9月13日。それから残り15試合もあったので、私も含め多くの人が、日本記録の60号も超えるのではと期待していたのですが、突然のブレーキ。とてつもない重圧の中、60打席ホームランが出ないまま最終打席を迎えることになります。そして、最終打席で感動的なホームラン。本当に素晴らしい、鳥肌が立つくらい感動的なホームランでした。
 昨日の西日本新聞には次のようなことが書かれていました。

 野球人生で初めての挫折は中学生の頃。母文代さんは悲しそうな表情が忘れられない。目指していたU-15(15歳以下)の日本代表から落選。選出の連絡が届かない携帯電話を握りしめ、家のリビングで涙した。「お父さんには落ちたって言わないで。お母さん、俺は高校生になったら絶対に甲子園に行くから」。悔しさで震える肩を見た母は優しくうなずいた。
 反骨心を胸に、地元熊本の強豪、九州学院へ進学した。「体を大きくしたい」と切望する息子に、母は高校の3年間、毎日のように弁当を作った。文代さんは「ご飯を2リットルの容器に敷き詰めて、そこにがっつりおかずをのせてね」と懐かしむ。好物はニンニク抜きで野菜がたっぷり入った揚げギョウザ。練習から帰宅するとトマトクリームパスタをリクエストした。愛情のこもった手料理で体は大きくなり、筋力も向上した。打撃が磨かれ、高校1年生の夏に約束だった甲子園大会出場を果たした。
 2016年4月に起きた熊本地震では家族の絆を再確認した。当時は兄の友幸さんが関東の大学に在学していたため、両親と弟の慶太さんとの4人暮らし。余震が続く中、高校2年生の次男として「みんなで寝よう」と提案し、ヘルメットをかぶって身を寄せ合った。文代さんは「ムネ(宗隆)も慶太に覆いかぶさって守ろうとした。棚から食器が落ちる音もして怖かったと思うけど」と兄としての優しさを感じ取った。
 今や球界のスターとなったが、父公弥さんは「家族の前では、寂しがり屋で昔のまんま。弟思い、兄思いの次男坊」とほほえむ。毎年オフには熊本の実家で家族との時間を大切にしている。飛躍を続けるわが子に父は「子どもの見本となる選手になってほしい」。母は「けがをせずに、長く野球をやってほしい」と願いを込めた。

 今やファンの間では「村神様」とまで呼ばれ、日本野球界を代表する選手になっていますが、家族をはじめたくさんの人に支えられ、困難や挫折を乗り越え、ここまできているのだと思います。村上選手は、熊本地震から4年目になるとき、被災された方などへむけてこんな言葉を話しています。
「今こうやって野球ができる喜びを1打席1打席1球1球1試合1試合感じながら頑張りたいなと思います」
 熊本地震で被災した経験は「思い出すのも嫌なくらいの出来事」で、「地震のことはあんまり言いたくない」という村上選手。「揺れの恐怖と、1日1日生きている感謝の気持ちを、ものすごく感じています」と語っていたそうです。
 日常の当たり前がいかにありがたいか…。好きな野球ができること、好きなことができることに感謝することができる。当たり前に感謝をし、様々な困難をバネにして、努力し続けたからこその偉業達成だと思います。
 高校時代の恩師の先生は、「(村上選手の)性格はいたって素直。そして、聞き上手だった。良い点、悪い点をずっと話していても、まじめに聞いていた」。また、「嫌なことから逃げず、常に課題と向き合う姿が今も印象深い」と話されていたそうです。
 村上選手の表情を見ていると、その人柄のよさが伝わってきます。やはり、人間性、努力、そして感謝する気持ちが、何事においても大切なのだと思います。
 これからの村上選手のますますの活躍を願っています。56号ホームラン、そして三冠王、本当におめでとうございます!