【10月11日】幸運
- 公開日
- 2022/10/11
- 更新日
- 2022/10/11
Kのつぶやき
10月8日・9日は、バスケットボール、男女バレーボールの筑紫区中体連新人大会が行われました。私は、諸事情により、8日は男子バレー部のコーチとしてベンチに入り、9日は女子バレーの応援でベンチに3試合入らせてもらいました。
(※バスケット部の皆さん、応援に行けなくてすみませんでしたm(_ _)m)
男子バレー部は、夏に勝てなかった相手にフルセットの末、勝利し1勝1敗となりましたが、セット率で残念ながら決勝トーナメントには進むことができませんでした。
女子バレー部は、予選リーグを勝ち上がりトーナメントに進出。準々決勝で惜敗したものの、敗者復活戦で勝ち上がり、筑前地区大会出場決定戦まで戦いました。結果は6位で筑前地区大会には出場できませんでしたが、善戦していました。
男女バレー部ともに、子どもたちはそれぞれの役割を果たし、今できることを最大限に発揮し頑張っていました。この経験はきっと、今後の練習、そして来年の夏の大会本番へとつながっていくはずです。やはり、「頑張ることは素晴らしい!一生懸命はかっこいい!」のです。そのことを間近で感じることができました。皆さん、本当にお疲れ様でした。
そして、男女バレー部の保護者の皆様は、とにかく明るく熱く、温かい応援をしていただきました。おそらくバスケットボール部の保護者の皆様も同様だと思います。本当に感謝いたします。今後とも、保護者の皆様のご理解とご協力をよろしくお願いいたします。
今週末は、男子剣道部の団体戦、そして、陸上部1年生の八坂翼さんが、1500mで県大会に出場します。健闘を祈ります!
さて、エッセイストの松浦弥太郎著『伝わるちから』に、「幸運を分かち合う」というところがあります。抜粋します。
「三杯の茶」という大好きなエピソードがある。
豊臣秀吉が鷹狩り(たかがり)の帰りに、近江(おうみ)伊吹山の観音寺に立ち寄った。雑用を営む寺小姓(てらこしょう:僧侶の身の回りの世話などをする人)に、お茶を所望(しょもう:ほしいと望むこと)したところ、寺小姓は、最初に、大きめの茶碗にぬるめのお茶を淹(い)れて出した。次ぎに一杯目よりも小ぶりの茶碗にやや厚めのお茶を淹れて出した。そして最後に、小さな茶碗に熱いお茶を淹れて出した。
のどが渇いているだろうから、最初にぬるめのお茶をたっぷりと出し、その後に、ゆっくりと休んでもらおうと、やや熱めのお茶を出し、最後にお茶の味を存分に楽しんでもらおうと、熱いお茶を出した、寺小姓のきめ細やかな気配りと、深い心遣いにいたく感激した秀吉は、寺小姓を家来として迎え入れた。その寺小姓こそ、その後の、豊臣秀吉の五奉行の一人、関ヶ原の戦いで名の知れた石田三成である。
このエピソードは、人はいつも自分を助けてくれる、気転のきく、優秀な人を探しているとも教えてくれている。偉い人であればあるほど、きっとそうだ。
常々思うのは、幸運とは、いつも誰かが運んできてくれるもので、自分一人で手にできるものではないということだ。幸運とは、拾うものではなく、必ず誰かが自分に手渡してくれるもの。そしてまた、自分も幸運を人に手渡す立場であることを忘れてはいけない。幸運とはそんなふうに互いに分かち合うものである。
だから、もし求めているものがあるのなら、まずは先に自分から人に与えること。それはたった一杯のお茶からであってもよいのだから。
この「三杯の茶」は、「三献茶」ともいわれている逸話です。この逸話は公式な記録は残っておらず信ぴょう性に欠けるともいわれています。しかしながら、この逸話の面白さが語り継がれ今も残っているそうです。
この話の真偽はともかく、人への気遣い、相手意識はとても大切なことだと思います。その人にとって当たり前のような礼儀や気配りが、相手にとっては心に残ることであったり、信頼されることであったりすることで、道が開けることがあるということを教えてくれているのだと思います。そして、「幸運」も、私利私欲に満ちた心ではなく、その人の努力や小さな心がけ、利他の心によってもたらせるものだということではないかと思います。
ちなみに、石田三成の気配りや相手意識の高い行動の逸話は他にもあります。それはきっと、石田三成という人が、人情にとても厚い人であったということの表れなのではないでしょうか。