学校日記

【10月20日】明日は…

公開日
2022/10/20
更新日
2022/10/20

Kのつぶやき

 明日はいよいよ「創立40周年記念文化祭」となりました。今年は、まどかぴあが使用できないため、学校での実施です。そして、子どもたちが一番時間をかけて取り組んできた3年ぶりの「合唱コンクール」。どんな合唱を聴かせてくれるのか本当に楽しみです。
 それから明日は、私事ではありますが母の命日でもあります。亡くなってから14年が経ちます。歌や踊りが大好きだった母。常に感謝と笑顔を忘れなかった母。「苦労は買ってでもしなさい」と私に言い続けてきた母。生きていれば、御陵中の合唱コンクールを観にいきたいねぇと、きっと言うと思います。合唱の時期になると本当に母との思い出がつい最近のようによみがえります。以前のひとりごとや学校だよりを読んでいただいた方には繰り返しのようになりますが…。
 母は亡くなる5年半ほど前、突然「大腸ガン」ということがわかりました。そして、すぐに手術の日程が決まりました。私としては、「母がガン?…」と、ピンとこず手術をしていただく病院に行きました。術後、先生の説明は「手術自体はうまくいきましたが、思ったよりも進行していて、もしかしたら、今後“転移”があるかもしれません。定期的に検査をしながら進めていきましょう」、そう言われました。親はずっと元気でずっといてくれる、そんなことはないのに、そんな風に思っていたのです。そして、それから時が経ち、検査によって肺への“転移”が見つかりました。またしても手術。私はそのとき、2年生の担任をしていました。ちょうど、合唱の取組が始まったばかりでした。「春に」という曲に取り組んでいましたが、当初は学年で一番歌わないクラスでした。そんなときに、私が母の手術で休まないといけなくなったのです。私は、転移が見つかり動揺していました。もしかすると母が…そんな最悪のことも考えました。それで、私はクラスの子どもたちに正直に休まないといけない理由を話しました。何だか、話している内に、胸が痛くなり自然と涙が出ました。すると、子どもたちまで泣いているのです。自分で、これではいけないと「きっと大丈夫だから、心配しないでいいよ!ごめんね…」と最後は笑顔で終えました。
 そして、手術前日の帰りの会。「じゃあ、明日先生はいないけど、担任がいないときこそ、しっかり頑張るんだぞ!」なんて言いながら、さようならの挨拶をしようとしたときです。合唱の実行委員をしていた子が「先生、ちょっと待ってください」と机の中から取り出した色画用紙のようなものを私のところに持ってきました。「何、これ?」と尋ねると「手術が成功するように、先生のお母さんへのメッセージをみんなで書いたんです」。その色画用紙2枚を広げると、中にクラス全員分の私の母へのメッセージカードがきれいに貼られていたのです。私は驚くとともに感動しました。「先生のお母さんの手術成功したら、どれくらいで退院できますか?」と聞かれたので「うーん、病院の先生はとりあえず2・3週間くらいかなと言われたよ」というと、笑顔で「わかりました!先生、気をつけて行ってきてください。みんなで祈ってますから」。
 私は、子どもたちからもらったメッセージカードを持って病院へ行きました。母に「これ、クラスの子どもたちが先生のお母さんへ、ってくれたよ」と伝えると、それだけで母は泣いていました。「今見たら、涙が止まらなくなるから、手術が終わってから見るから…ありがとう」、そう言って母は手術室へ向かいました。無事に手術は終わり、私は次の日、学校へ行きました。
 教室に入ると前の黒板にも後の黒板にも「金賞とって、先生のお母さんをふれ文へ招待!」そんなメッセージがたくさん書かれていました。当時、春日市の学校に勤めていたのですが、春日市では各校の金賞クラスが一同に会し、春日市合唱祭というものがふれあい文化センターというところで行われていました。子どもたちが言うには「私たちがめっちゃ練習頑張って金賞とって、先生のお母さんに合唱祭に来てもらいたいんです。そして私たちの歌で、先生のお母さんをもっともっと元気にしたいんです」。何て素敵な子どもたちなのでしょうか。それからというもの、どこのクラスよりも練習を頑張った私のクラスの合唱は日に日によくなり、見事感動的な“金賞”を手にしました。全員が泣いて喜んでいました。教室に戻ると、私は胴上げまでしてもらいました。そして子どもたちの願いも叶い、合唱祭当日、私の両親は奇跡的に来場することができました。子どもたちは、ホールで心のこもった素敵な「春に」を聴かせてくれました。私の母に「どうでしたか?私たちの歌は…」と笑顔で聞いていました。もちろん、母は大喜び。ホールをあとにするとき、「本当に素敵な子どもたちやねぇ。こんなに素敵な子たちと出会えるなんて、あんたは幸せ者やね!感謝せな!」そう言って、帰っていきました。次の年から、母には私のクラスの合唱を録画して見せるようになりました。しかし、そんなことも長くは続きませんでした。病魔は確実に私の母をむしばんでいきました。
 14年前の9月30日夕方、私の母は救急車で搬送されました。病院の先生からは「もう手のほどこしようがない」と、死を宣告されました。それでも奇跡を信じ続けた3週間。仕事を早めに切り上げ毎日病院に通いました。私は、信じたくない現実に、帰りの車の中で何度も涙が枯れるまで泣きました。そして、母は14年前の10月21日に息をひきとりました。
 初七日を終えた夜、父親が突然こんなことを聞いてきました。「お前はあいつ(母)が子どもの頃、何になりたかったか知ってるか?」と、突然そんなことを聞いてきたのです。何も知らなかった私が「え?何?」と聞くと、「あいつは、学校の先生になりたかったんだ。でも、父親が女が仕事とかせんでいいと、(家業の)商売を手伝わせると言って高校にも行かせなかった。中学校の成績はとても優秀で先生はぜひ高校へと進めていたみたいだけどな。だから、お前が先生になったとき、“浩彦が私の夢を叶えてくれた”って、とっても喜んでたんだ」。私は言葉も出ず、涙が止まらなくなりました。もっと親孝行していればと思っていた私ですが、私が母の夢を叶え、この仕事を頑張ることが、母の支えになったり少しの恩返しになったりしたとすれば、それは幸せなことだと思いました。素敵な子どもたちから、お金では決して買えない最高の宝物をいただけるこの仕事…。明日もきっと、子どもたちの素敵な姿を見ることができるという期待でいっぱいの私です。私の母は、父とともに御陵中創立40周年記念文化祭をどこかで見守ってくれていると思います。