【10月24日】“いのち”の尊さ③
- 公開日
- 2024/10/24
- 更新日
- 2024/10/24
校長のひとりごと
一昨日のひとりごとでもお伝えした、2011年の震災当時避難所となっていた階上(はしかみ)中学校。階上中学校は、2011年3月12日(土)に卒業式を行う予定でした。しかし、その前日の大地震と大津波がかけがえのない命や人々の家や大切なものを破壊し、奪い去っていきました。階上中学校は避難所となり、被災された方々とともに、中学生も厳しい毎日を送りました。そんな中、10日遅れの卒業式が、被災されたたくさんの方々が見守る体育館で第64回の卒業式が行われたのです。その中で卒業生代表として答辞を述べた、梶原裕太さんの言葉を載せます。
今日は未曾有の大震災の傷も癒えないさなか、私たちのために卒業式を挙行して頂き有難うございます。
ちょうど10日前の3月12日。春を思わせる暖かな日でした。私たちは、そのキラキラ光る日差しの中を希望に胸を膨らませ、通いなれたこの学舎を57名揃って巣立つはずでした。前日の11日、一足早く渡された思い出の詰まったアルバムを開き、十数時間後の卒業式に思いをはせた友もいたことでしょう。「東日本大震災」と名付けられる天変地異が起こるとも知らず…。
階上中学校といえば「防災教育」といわれ内外から高く評価され、十分な訓練もしていた私たちでした。しかし自然の猛威の前には、人間の力はあまりにも無力で、私たちから大切な物を容赦なく奪っていきました。天が与えた試練というには、むご過ぎるものでした。辛くて悔しくてたまりません。時計の針は14時46分を指したままです。でも、時は確実に流れています。生かされた者として顔を上げ、常に思いやりの心を持ち、強く正しくたくましく生きていかなければなりません。
命の重さを知るには大き過ぎる代償でした。しかし、苦境にあっても「天を恨まず」運命に耐え、助け合って生きていくことが、これからの私たちの使命です。
私たちは今、それぞれの新しい人生の一歩を踏み出します。どこにいても何をしていようとも、この地で仲間と共有した時を忘れず宝物として生きていきます。
後輩の皆さん階上中学校で過ごす「あたりまえ」に思える日々や友達が、いかに貴重なものかを考え、愛おしんで過ごしてください。
先生方、親身のご指導有難うございました。先生方がいかに私たちを思って下さっていたか、今になってよくわかります。
地域の皆さん、これまで様々なご支援を頂き有難うございました。これからもよろしくお願いいたします。
お父さん、お母さん、家族の皆さん、これから私たちが歩んでいく姿を見守っていてください。必ず良き社会人になります。
私はこの階上中学校の生徒でいられたことを誇りに思います。
最後に、本当に、本当に有難うございました。
この答辞の一部は、ネットに動画としてもあがっています。またNHKがその後の梶原さんにインタビューした番組もあります。
梶原さんは、小学校からの親友3人を失いました。それでも、避難所となった体育館で、率先して地域の方々のためにボランティアとして活動していました。3月12日の卒業式のために準備していた「答辞」も書き換え、22日の卒業式に臨みました。答辞を読む途中で涙をこらえきれなくなり、制服の袖で涙を拭いながら、それでもしっかりとした口調で訴える梶原さん。NHKのインタビューには、当時のことを思い出し、こう答えていました。
「自分も(答辞を)読んでいる瞬間は、どうしてこんなことに…となっているところもあったんです。でも、読む瞬間に自分に文章を言い聞かせた部分もあるので…。しおれることなく、大きな人間になって、再び階上の復興に役立つ、そういった人間に一緒になっていこうという思いを込めました」。
2011年当時から、梶原さんの答辞は日本だけにとどまらず世界中で反響を呼びました。私もそうでしたが、梶原さんの言葉の重さ、素晴らしさに感動し、涙が止まりませんでした。それと同時に多くの方が勇気をもらい、もっと頑張らなくては、もっとできることをしなければと思いました。
梶原さんは、岩手県の国立高専で5年間土木工学を学び、現在は地元に戻って地盤改良の仕事をしているということです。答辞で述べたことを実現され活躍する梶原さん。本当に凄いし素晴らしいと心から思います。
【写真上】気仙沼パークゴルフ場(旧気仙沼向洋高校グラウンド)
【写真下】南三陸ホテル観洋のロビーから撮影。ホテル観洋は、地形的なこともあり、10メートル以上の津波が押し寄せてきたにもかかわらず、3階以上の部屋は浸水を逃れる。震災当時、ホテルの女将さんは、被災者のために避難場所として部屋を提供し、誠心誠意尽くされた女将さんの行動に、多くの方が助けられ、勇気を与えたとのこと。