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【11月1日】私の父①

公開日
2024/11/01
更新日
2024/11/02

校長のひとりごと

 11月になりました。あっという間に時が過ぎていきます。今日、3年生は「学力診断テスト」でした。十分に力を出し切ることは出来たでしょうか?このテストの結果も含めたところで、最終的な進路先を決定していきます。しっかりと考え、保護者の方、先生などに相談しながら、最後は自分の意思で決定し、自らの進路を切り拓いていってほしいと思います。さて、本日11月1日、「今日は何の日?」と調べてみると、様々な記念日が載っていました。「計量記念日」「灯台記念日」「生命保険の日」「犬の日」「点字記念日」「すしの日」「紅茶の日」「焼酎の日」「川の恵みの日」「野沢菜の日」「古典の日」…

 私の知らない様々な記念日があります。そして明日11月2日は、私にとっては先日お伝えした亡くなった父の7回忌となります。大野東中では父のことを載せたことがないので、私の父のことを少し語らせてください。


 農家の三男として生まれた私の父は、母と結婚後、商売を始めました。「藤井商店」という、田舎の“何でも屋さん”でした。肉、魚、野菜、お菓子などの食品はもちろんのこと、衣料品、生活用品、石炭、練炭…お客さまがこんなものがあるといいと言うと、可能なものであれば仕入れてきて売るような店でした。また、少し遠くても軽トラックで配達をしたり、近所の方には、私たち子どもが歩いて届けたりすることもしばしばありました。

 父の性格はというと、本当に一本気で頑固、言い出したら周りの人が困るくらい人の言うことを聞かない。一方で頼りにされるととことん尽くし、“義理人情”にたいへん厚い人でした。ユーモアもありましたが、一方で私たち子どもにはとても厳しい面があり、小さいときは、少々怖い存在でもありました。お酒が大好きで晩酌を欠かしませんでした。飲み友達は多く、私の家には、仲良しの方々が夜中までおられることもしばしばでした。定休日のない私の家は、泊まりの旅行など行ったことはほとんどなく、盆も正月も忙しく働いて、私たちは手伝い…という日々でした。車やバイクが大好きでしたが、乗ることより洗車していることの方が多いような状況でした。

 私の姉も妹も仕事をし始め、最後まで一番経済的負担をかけていた私の就職が決まったところで、「藤井商店」を閉じることとなりました。父はそれからは親戚が経営する鮮魚店で長く働きました。朝早くからたくさんの総菜を母と作り、その店で販売もさせてもらってもいました。仕事をほぼ引退し、母がガンで亡くなってからは、一人で過ごすことが多くはなりましたが、一人で買い物に出かけたり、飲みに行ったり、自分のペースで生活をしていました。そんなある日、父からこんな電話があったのです。

「喉に異常があるみたいで、手術せんと死ぬって言われた…」

 私は、突然の話に意味がわかりませんでした。その後、父と共に病院を訪れ、担当の先生から話を聞いて理解しました。喉の弁のような部分の開閉に異常があるとのことでした。投薬等で治ることもあるとは言われましたが、とりあえず、気道をしっかりと確保しておかないと、場合によっては「窒息死」することもあるというものでした。そこで、急きょ喉に穴を開け、プラスチックのようなパイプを通し、強制的に気道を確保する手術をすることになりました。もちろん、弁のような部分が正常に動くようになれば、喉の穴はふさぐことができると言われました。手術は、さほど難しいものではなかったのですが、喉に常にパイプを通しての生活になりました。毎日のパイプの洗浄、付け替え、また、時には炎症を起こしたり、痛みが出たり、また食べることが今までのようにはいかなくなりました。何より、空気が喉から抜けていくので、声が思うように出せなくなりました。電話等では、父が何と言っているかわからない状態でした。父のかすれた声では相手に伝わらず、何度も聞き直され、言い直す毎日でした。父は伝わらないもどかしさ、今までのようにいかない生活、そして脚も弱くなり歩くことも難しくなってきました。治療を続けましたが、喉の状態は変わらず、喉に穴を開けたまま過ごすしかなかったのです。痛みとともに不自由な生活のストレスからか、病院の先生や人の悪口ばかりを言う日々が続きました。時には、私自身も、父の不平・不満を聞くことがイヤになり、父を叱ってしまったこともありました(このことは、本当に後悔しています…)。

 それでも、いつも強気で頑固で元気だった父が、立つことすらままならなくなっていく姿を見ながら心が痛みました。倒れると、一人で起き上がることもできなくなっていきました。少しでも痛みが改善されるようにと、いくつもの病院を回ることもありましたが、好転することはありませんでした。その状況といかに上手につきあっていくしかありませんでした。母が亡くなって10年が過ぎた2018年10月27日に、10年の区切りとして母の法要をしました。父も椅子に座り、静かに手を合わせていました。 (次回へ続く…)