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【11月5日】私の父②

公開日
2024/11/05
更新日
2024/11/05

校長のひとりごと

(11月1日の続き…)

 母の法要の5日後である11月1日夜11時頃、私が帰宅したときには、父は部屋で寝ていました。そして、次の日の朝、いつも朝早く起きる父が起きてこない。父の部屋に行きその異変に気づきました。父がピクリとも動かないのです。口に手を当てると息をしていないようなのです。私はすぐに119番をしました。救急隊の方が「電話を切らないで、心臓マッサージをしてください…私たちが到着するまで続けてください…」。私は「息を吹き返してくれ!」と、願いを込めながら無我夢中で父の心臓マッサージをしました。気が動転し、どれくらいの時間が経っていたのかすらまったく覚えていません。救急隊の方が到着し、父の部屋で蘇生のための処置をし、救急車に乗せ、父は病院に搬送されました。病院の廊下で、父の無事を祈りながらひたすら待ちました。しかし、無情にも父の心臓が再び動き出すことはありませんでした。おそらく私たちが父の異変に気づく数時間前には息を引き取っていただろうとのことでした。その後、警察の方が来られ、事情を聞かれ、自宅を見せてもらえますか?と。気が動転していたためか「なぜ、警察の方が?」と思いましたが、冷静に考えると納得がいきました。すぐに現実を受け止めることができない自分がいたのですが、私は「喪主」として、悲しむ暇もなく、関係の方々に連絡をして、通夜・葬儀等の準備をしました。忙しくて目が回るようで涙も出ませんでした。通夜に弔問していただいた方へのお礼の挨拶のときにはじめて涙が溢れてきました。お世話になったたくさんの方々のお気遣いの言葉で、涙は止まらなくなりました。「いつかは…」という気持ちはありましたが、まさか…、それが正直な気持ちでした。

 あとで思えば、母が亡くなり10年が経ち、安心したのか…、母が「お父さんも一人で頑張ってきたからもうこっちに来てもいいよ」と言ったのか…。母の命日は「1021」父の命日は10年後の「1102」、なんだかその数字にも不思議なものを私は勝手に感じています。

 私が小さいとき、カブトムシを一緒にとりにいってくれた父、姉が学校の授業で「竹」がいると言えばすぐに竹を切りにいき準備してくれた父、私の妹とふざけて大笑いする父、大好きな車を朝早くからピカピカに磨く父、お酒の席で照れながら演歌を歌う父、母と夜中から鉢盛りを黙々と作る父、怒ると本当に怖くて近づくこともできなかった父、母親と仲良く買い物に行く父、私が働くようになって一緒に行った温泉旅行をとても喜んでくれた父、私たちが好きだからと絶品の“高菜の油炒め”を作ってくれる父、喉の手術をして痛みに顔をゆがませる父、足腰が弱くなり倒れると起き上がれなくなった父…少しずつ弱っていく父でしたが、家族みんなで食事をしたりお酒を飲んだりすると「やっぱりみんな一緒だとおいしかねぇ」と笑顔になる父、お風呂にも入ることが困難になった父をお風呂場に連れて行き、体を洗い、頭を洗ってあげると「気持ちよかー。床屋より上手やんか。」と上機嫌になる父…もっとしてあげたいことがたくさんあったのにと後悔し、涙が溢れてくるのでした。

 父は、決して上手な生き方ができる人ではありませんでした。一本気で頑固で、周りの方にもたくさん迷惑をかけてきたと思います。しかし、情には厚く、自分のために力を貸してくれた人には全力で恩義を返さなければという人でした。晩年、あんなに強気だった父が、弱気になったり愚痴ばかり言ったり…何より、父の背中を流しながら、昔はあんなに大きく感じていた父の背中がこんなにも小さかったのかと感じたのです。そのとき、私は父にどれだけ心配をかけ、どれだけ支えてもらい、叱ってもらい、深く大きな愛情で包んでもらってきただろうと感謝の気持ちでいっぱいになったことを今でも思い出します。

 生きとし生けるもの、いつかはこの世に別れを告げるときがくることは頭ではわかっているはずなのに、自分の親はいつまでもいてくれるような気がしていました。私たちは、そんな親から「生」を受け、たくさんの愛情をかけてもらい、たくさんの「おかげ」を受けて生きています。たった一度のかけがえのない「今」を、そして「人生」を生きています。私が親から受けたたくさんの愛情への恩返しは、どれだけしていたとしても、したりないと私は思っています。今、できることは、私の両親からいただいたかけがえのない「命」を精一杯に使って、精一杯に生きることだと思います。

 目の前にいる子どもたちも、とてつもない“奇跡”で生まれてきました。とてつもなくかけがえのない命であり、ひとりひとりが唯一無二なのです。私たち大人にできることは、子どもたちの笑顔と未来のために、力を合わせ、精一杯に関わり支援していくことです。これからも子どもたちのために頑張ります。それが私自身の、両親への恩返しでもあると私は信じています。