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【3月12日】今を精一杯に!

公開日
2024/03/12
更新日
2024/03/12

校長のひとりごと

 昨夜のニュース等でも、そして、今朝の新聞等でも、「東日本大震災13年」として様々な報道がなされていました。震災を経験された方々のインタビューが流れていました。
「苦しいです…何年経っても…」
「一緒に成人式を迎えたかった…」
「たくさんの人のおかげで、いま、生きてるから…頑張らなきゃ…」
「あの日を忘れず、未来に向かって生きていきます…」
 能登の方へのメッセージもありました。
「生き残っている人は、生きている間は精一杯に生きてほしい…」
「希望は、どんなに時間がかかっても必ず見えてくるから、諦めないでほしい」
 今朝の讀賣新聞1面の記事には、次のようなことが載っていました。
◆岩手県宮古市の田老地区では、2021年に完成し、震災前から高さが1.5倍になった新防潮堤(高さ14.7m)の上に住民ら約200人が並び、黙とうした。同地区では、「万里の長城」と呼ばれた高さ10mの防潮堤を津波が越え、181人が犠牲になった。祖母を亡くした会社員山本英貴さん(47)は「13年たっても悲しみは変わらない。助けられなくてごめんという思いで祈った」と語った。
 黙とう後、地元の小学6年生約20人が追悼のたこを揚げた。震災3ヶ月後に生まれた小林蓮央(こばやしれお)君(12)は、「津波の被害をしっかり学び、いろんな人に伝えていきたい」と話した。
 職員43人が犠牲になった宮城県南三陸町の旧防災対策庁舎。同県気仙沼市の村上勝正さん(74)は、この庁舎にいて行方不明になっている長男 宏規さん(当時33歳)に、花束と好きだった缶コーヒーを献花台に供えた。町は今年7月から庁舎を震災遺構として保存することを決めた。村上さんは「残してもらってよかった。いつか帰って来てくれるかな」とつぶやいた。

 また、福島県主催の追悼復興祈念式で遺族代表挨拶をされた鍋島悠輔さん(20歳)のことも載っていました。
◆福島県浪江町請戸地区になった神社の神主の父彰教さん(当時46歳)と、看護師の母弥生さん(当時43歳)は、車で母方の祖父母を迎えに行って津波にのまれたとみられる。小学1年だった鍋島さんは学童保育の最中に揺れに襲われ、車で高台に避難。「後部座席から見えた黒くて巨大な津波の恐ろしさが、今も心に強く残っている」。鍋島さんは神奈川県の父方の祖父に引き取られ、家族の死を知らされたのはその半年後。「両親が迎えに来ないことをずっと不思議に思っていた」が、幼くて事態をのみ込めず、涙も出なかった。一緒にサッカーをしてくれた父、手料理がおいしかった母…。両親と過ごした楽しい思い出が色あせることはない。音楽好きだった両親の影響もあり、専門学校では楽器の修理を学ぶ。「多くの人の支えがあって今がある。人とのつながりを大切にしたい」

 家族や友人・知人を亡くされた方々の思いのこもった言葉に溢れていました。涙を流しながらインタビューに答えられていた方々がたくさんいて、13年経とうと、悲しみは消えない、寂しさは消えないのだと改めて思いました。それと同時に、いただいた命、生かされた命をもっともっと大切にしなければならない。自分自身が精一杯に生きることこそ、亡くなった方への思いに応えることなのだという強い決意も感じることができました。
 私たちは、いま、生きている。生かされている。いつどうなるかなんて誰にもわからない。だからこそ、「いま」を精一杯に。そして出会いや繋がりに感謝しながら、毎日を大切に生きなければと思います。