【12月4日】武器なき戦
- 公開日
- 2024/12/04
- 更新日
- 2024/12/04
校長のひとりごと
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今日も先生方の授業公開が行われていました。今日は、福岡教育事務所指導主事の山田健司先生に来ていただいて、1時間目の香川大先生、2時間目の荒木沙織先生の授業を参観後、指導・助言をしていただきました。私たち教師は常に研究・修養に励み、努力していかなければなりません。私も先生方の授業を見させてもらい、毎回たいへん勉強になります。子どもたちの学びが主体的になるような課題づくり、課題解決のための手立て、工夫など様々なことを知ることができます。先生方は、教科は違っても自分の教科の授業でいかせること、参考になることを学びあいながら、子どもたちが主体的に、そして「わかった・できた」が実感できるような授業づくりにこれからも取り組んでいきたいと思っています。
さて、昨日に引き続き12月4日付、西日本新聞のコラム『春秋』からです。
中村哲さんがアフガニスタンで命を落として、きょうで5年になる。長きにわたる医療支援や用水路建設の人道支援活動は1984年に始まった。パキスタン・ペシャワルへ赴く中村さんは37歳だった。この世界を通じて破滅から守っているのは、支え合って生きるという善意の努力であり、わが身を削って分かち合うことで少しでもこの世界を明るくした…。当時、支援者向けの手紙で決意表明し、ある詩を引用した。
〈もえなければ かがやかない/かがやかなければ せかいはうつくしくない/わたしがもえなければ あたりはうつくしくない〉。
記憶のままつづった八木重吉の詩は原文と少し違っているが、使命に高ぶる気持ちがのぞく。手紙は非政府組織(NGO)「ペシャワール会」草創期の会報に掲載された。37年分の会報から活動報告をまとめた上下巻「中村哲 思索と行動」(忘羊社)には干ばつと戦火の中、命と向き合い、水路を造り緑を増やしていく歩みが刻まれている。うわべの時流に木の葉のごとく漂うのも石のごとく沈むのも自由なら、我々はあえて時代に迎合せぬ不動の石でありたい(93年)。暗ければこそ明かりを灯し、寒ければこそ火をたく価値がある(2011年)。
仲間は意志を継ぎ、支援を得て活動は続いている。燃えて輝き、世界を美しくしようと生きた人。その姿と言葉に時々立ち返り、背筋を伸ばしたい。
福岡市出身の医師、中村哲さんの功績はあまりにも有名です。1991年、中村さんは医師として派遣されていたパキスタンから、隣国アフガニスタンの険しい山岳地帯ダラエヌール地区に初の診療所を作り、多くの人の命を救っていました。そして医療活動だけではなく、アフガニスタンに1600本もの井戸を掘り、戦災と干ばつに襲われた国を、なんとか救おうとしていました。しかし、地下水の枯渇を恐れたアフガニスタン政府が、井戸掘りの禁止を命じたため、2003年に発表したのが、”緑の大地計画”という用水路の建設でした。様々な困難に直面しながらも、中村さんは多くの人たちをまきこみ、建設開始から7年たった2008年、13キロの予定だった用水路は、およそ倍の25キロまで伸び、完成させました。水路周辺の約1万6千ヘクタールが緑化され、約65万人の自給自足が可能になったとのこと。さらに、中村さんは学校を建設し、多くの子どもたちが学ぶ場所もつくりました。その貢献たるや凄まじいものです。中村哲さんが亡くなられたとき、アフガニスタンのガニ大統領は、追悼式典で自ら棺を担ぎ、「彼は愛情深い人で、人生を全人類とアフガンに捧げました」と哀悼の意を述べられました。また、現地の人からも慕われ感謝され、自分の子供の名前を“ナカムラ”とした人もいると聞きます。中村さんの意志を引き継ぎ“緑の大地計画”は、多くの方の力で今も続いています。
中村さんの残した言葉をいくつか紹介します。
◆一致して協力し、復興の範を示すことが我々の使命である。これは、我々の武器なき戦である
◆祖母の説教が、後々まで自分の倫理観として根を張っている
弱者は率先してかばうべきこと、職業に貴賎がないこと、どんな小さな生き物の命も尊ぶべきことなどは、みな祖母の教説を繰り返しているだけのこと
◆平和とは観念ではなく、実態である
どれも考えさせられる言葉です。アフガニスタンでは、中村哲さんの功績を称えた絵本も出版されています(日本語版もすでに出版されています)。絵本の名前は『カカ・ムラド(中村のおじさん)』。その物語の締めにはこう書かれています。
■「カカ・ムラドはどこ?」。多くの人が中村先生の夢を見ました。
あなたがカカ・ムラドのようになってくれると信じているわ…
中村哲さんの功績を改めて称えるとともに、心から哀悼の意を捧げます。