【6月23日】かけがえのない命
- 公開日
- 2025/06/23
- 更新日
- 2025/06/23
校長のひとりごと
昨日、一昨日とたくさんの種目で大会が行われました。子どもたちの頑張る姿は本当にかっこいい!…そう思います。次の試合や大会へ向けて、また次の目標に向かって、それぞれに努力を続けてほしいと思います。
さて、今朝の西日本新聞のコラム『春秋』からです。
やんばるの森と呼ばれる沖縄本島北部の山あいに、もうすぐ新たなテーマパークが開園する。恐竜が迫り来るCMをずいぶん見た。近くには水族館もあり、観光客には人気のエリアだ。
その碑はテーマパークに近い八重岳の山中に立っている。「三中学徒之碑」。沖縄戦の最前線で犠牲となった旧制沖縄県立第三中学校の88人を慰霊する。太平洋戦争の戦局悪化で、沖縄では14歳も兵士にできる特例が認められた。1945年3月、沖縄の全ての中学校や師範学校に鉄血勤皇隊や通信隊が組織され、高等女学校の生徒は看護要員に。計2千人超が「鉄の暴風」と呼ばれた地上戦に投入された。三中の少年たちもそこにいた。児童文学作家真鍋和子さんの「子どもも兵士になった 沖縄・三中学徒隊の戦世(いくさゆ)」(童心社)には過酷な体験が生々しく記されている。中学生はいきなり2等兵となり、十分な訓練もなく米軍の猛攻撃にさらされた。ろくな武器も食料も持たされず、仲間は「アンマー(お母さん)」と叫びながら次々死んでゆく。足手まとい扱いされ、ひと月足らずで解散を命じられて山中をさまよった。8月15日を経て、沖縄戦は9月7日に終結する。その後、学校が始まるらしいぞと聞いた少年は「そうだ。おれは中学生だった」と思い出した。
きょう沖縄は慰霊の日。80年前、捨て石にされた島で子どもが兵士になった。無数の前途ある命が奪われた。
「沖縄戦」は、アメリカ軍が日本本土に迫るために沖縄を占領し、そこを拠点に日本本土への空襲や上陸作戦を進める目的で行われました。アメリカ軍は、1945年3月1日に沖縄本島に上陸を開始。上陸したアメリカ軍は、予想以上の激しい抵抗に遭い、初期の段階で大量の犠牲を出しました。しかし、日本軍は本土決戦に備えて沖縄に兵力を集結させており、地形を生かした激しい防衛戦を展開しました。特に、沖縄の山岳地帯や洞窟を利用した戦術が特徴的でした。日本軍は、沖縄戦を「最後の守り」と位置づけ、激しく戦いましたが、兵力や物資の不足から次第に追い詰められました。アメリカ軍は膨大な兵力と物資を投入し、沖縄本島の大部分を占領。最終的に、日本軍は降伏せざるを得なくなり、6月23日に沖縄戦は終結しました。戦闘は本土防衛の一環であったものの、民間人にも大きな影響を与えました。沖縄戦では、民間人も戦闘に巻き込まれ、避難中に命を落とす人々が多く、また自決を強いられるケースもありました。軍民合わせ20万人もの尊い命が犠牲となり、戦後の沖縄における社会や経済に深刻な影響を与えました。
コラムに出てくる「鉄の暴風」とは、1945年3月26日から3カ月間にわたり途絶えることなく続いた艦砲射撃や空爆のすさまじさを表現した言葉です。どれだけ恐ろしかったことか…想像を絶することです。そして、未来ある中学生までもが兵士としてかり出され、かけがえのない命を奪った戦争…絶対に繰り返してはなりません。
沖縄戦から私たちが学ぶべきことは、戦争の無意味さとその悲惨さ、そして平和の大切さです。このような悲劇を繰り返さないためには、戦争の恐ろしさをしっかりと認識し、対話と外交を重視して、戦争の回避に努めなければなりません。そして、私たちが身近にできることとして、日頃から他者を理解し、協力し合おうとすることです。どんなに小さなことであっても、対話し、相手のことを理解することによって解決を図っていくことが、結局は「戦争の回避」に繋がっていくのではないかと思います。
このような日に、私たちは過去の歴史を学び、平和な未来を築くために何ができるかをそれぞれに考えていくことが大切だと思います。
沖縄戦で亡くなられた方へ、追悼の意を表します。
(ひとりごと 第1043号)