学校日記

【11月2日】私の父

公開日
2020/11/02
更新日
2020/11/02

Kのつぶやき

 (2年前の学校便りに載せましたが・・・)私は2年前の今日、いつものように朝6時過ぎに仕事に向かおうとしていたところでした。妻が、「すぐ、お父さんの部屋に来て!」と血相を変えて私を呼びに来たのでした。何事かと思い急いで父の部屋へ行きました。妻が声を震わせながら「お父さんが息してないみたい・・・」と言うので、私はまさかとは思いながら父の口に手を当て、息をしているかの確認をしました。私は、「え?!すぐに救急車を呼んで!」と言った後、父の体を揺すりながら、大声で起こそうと叫び続けました。電話の向こうの救急隊員の方からの指示で、父をベッドからおろし、心臓マッサージをしました。「目を覚まして!」「起きて!」などときっと言いながら、私は救急隊の方が来るまで心臓マッサージを続けました。どれくらい経ったかもわからない中、サイレンの音がして救急隊の方が5名ほど入ってこられました。いろいろと聞かれましたが、私も気が動転していたので、何を聞かれたかすら思い出せません。救急隊の方が懸命に蘇生のための処置をされていたことは覚えています。救急病院に運ばれましたが、父は息を吹き返すことなくこの世を去りました。あっという間でした。あまりにも急で、心の準備もできていなかった私は、目の前で起きている光景が夢であるかのようでした。信じたくない現実に戸惑いながらも、様々なところへの連絡や対応、葬儀場との打ち合わせなどでバタバタと時間が過ぎていきました。通夜が始まるまで私は悲しむことすらできない状況でしたが、弔問していただいた皆様への挨拶のときに涙が溢れて止まらなくなりました。その日の夜中、自分の幼少期の頃からその日のことまでを思い出しては、悲しいやら寂しいやら悔しいやら、何ともいえない気持ちでいっぱいになっていました。
 私が小さいとき、カブトムシを一緒にとりにいってくれた父、姉が学校の授業で「竹」がいると言えばすぐに竹を切りにいき準備してくれた父、私の妹とふざけて大笑いする父、大好きな車を朝早くからピカピカに磨く父、お酒の席で照れながら演歌を歌う父、母と夜中から鉢盛りを黙々と作る父、怒ると本当に怖くて近づくこともできなかった父、母親と仲良く買い物に行く父、私が働くようになって一緒にいった温泉旅行をとても喜んでくれた父、私たちが好きだからと絶品の高菜の油炒めを作ってくれる父、喉の手術をして痛みに顔をゆがませる父、足腰が弱くなり倒れると起き上がれなくなった父・・・少しずつ弱っていく父でしたが、家族みんなで食事をしたりお酒を飲んだりすると「やっぱりみんな一緒だとおいしかねぇ」と笑顔になる父、お風呂にも入ることが困難になった父をお風呂場に連れて行き、体を洗い、頭を洗ってあげると「気持ちよかー。床屋より上手やんか。」と上機嫌になる父・・・もっとしてあげたいことがたくさんあったのにと後悔し、涙が溢れてくるのでした。
 父は、決して上手な生き方ができる人ではありませんでした。一本気で頑固で、周りの方にもたくさん迷惑をかけてきたと思います。しかし、情には厚く、自分のために力を貸してくれた人には全力で恩義を返さなければという人でした。晩年、あんなに強気だった父が、弱気になったり愚痴ばかり言ったり・・・何より、父の背中を流しながら、昔はあんなに大きく感じていた父の背中がこんなにも小さかったのかと感じたのでした。そのとき、私は父にどれだけ心配をかけ、どれだけ支えてもらい、叱ってもらい、深く大きな愛情で包んでもらってきただろうと感謝の気持ちでいっぱいになったことを昨日のことのように覚えています。
 生きとし生けるもの、いつかはこの世に別れを告げるときがくることは頭ではわかっているはずなのに、自分の親はいつまでもいてくれるような気がしていました。
 私たちは、そんな親から「生」を受け、たくさんの愛情をかけてもらい、たくさんの「おかげ」を受けて生きています。たった一度のかけがえのない「今」を、そして「人生」を生きています。
 私が親から受けたたくさんの愛情への恩返しは、どれだけしていたとしても、したりないと私は思っています。今、できることは、私の両親からいただいたかけがえのない「命」を精一杯に使って、精一杯に生きること。
 あれからちょうど2年、今日は父の命日です。母と共に父が眠る納骨堂に行き、手を合わせ、感謝の気持ちを伝えてきたいと思います。