【6月15日】気持ちをカタチに
- 公開日
- 2021/06/15
- 更新日
- 2021/06/15
Kのつぶやき
昨日は、市内の先生方の集まる会議で私は挨拶をする場面がありました。その中で私は2年前の本校2学期の始業式で生徒に話したあるCMの話をさせていただきました。(※始業式では、子どもたちにこのCMを映像で紹介しました)
CMの内容は、制服姿の青年が、満席の電車に乗って座っている。その青年の前を、妊娠された女性が通っていく。彼が席を譲ろうかどうか迷っているときの画面には「こころはだれにも見えないけれど」のテロップ。その後、斜め前にいる女性がスッと立ち上がり席を譲ると、テロップで「こころづかいは見える」
場面はまた変わり、友達と帰っているその青年。友達に別れを告げ家路に・・・。歩道橋を上ろうとすると、杖をついたお婆さんが、青年の目の前をゆっくりと上っている。知らないふりをしてその横を通り過ぎようとした青年が立ち止まる。「思いは見えないけれど」のテロップが流れ、青年はお婆さんのもとへ行き、手を差し伸べる。「思いやりは誰にでも見える」のテロップが流れ、青年とお婆さんは一緒に階段を上っていく。青年は、優しい笑顔になる。最後に「その気持ちをカタチに」のテロップが流れる。
これは、10年前の東日本大震災のあとに何度も流れていたCMです。私は、その当時、東日本大震災の津波やその被害の様子を映像で見るたびに、何とも言えない苦しい気持ちになりました。「自分はここにいていいのだろうか?」「生きるって何だろうか?」「命って何だろう?」、「家族って何だろう?」・・・そんな中で、このCMを見たとき、「私にできることは?」「行動することの大切さ」などを改めて考えさせられ、胸を締め付けられる思いがしました。それと同時に、人間の素晴らしさ、助け合うことの尊さ、つながることの大切さ、ボランティアの凄さ・・・多くのことを感じました。
このCMに出てくる言葉はもともと、宮澤章二さんという方の書いた以下に紹介する「行為の意味」という詩がもとになっています。
あなたの「こころ」はどんな形ですかと人に聞かれても答えようがない
自分にも他人にも「こころ」は見えない
けれど ほんとうに見えないのであろうか
確かに「こころ」は誰にも見えないけれど「こころづかい」は見えるのだ
それは人に対する積極的な行為だから
同じように胸の中の「思い」は見えないけれど「思いやり」は見えるのだ
それは人に対する積極的な行為なのだから
あたたかい心があたたかい行為になり
やさしい思いがやさしい行為になるとき
「心」も「思い」も初めて美しく生きる
それは 人が人として生きることだ
何とも、考えさせられる詩だと私は思います。「心」や「思い」はとても素敵で尊いものです。しかし、それが言葉や行為のような「カタチ」になったとき、さらにイキイキと輝く。それが、「こころづかい」であり「思いやり」なのだと教えてくれています。
コロナ禍で、子どもも大人も不安やストレスがたくさんあると思います。それでも、一人一人の小さな「こころづかい」や「思いやり」ある言動が、人々の不安を和らげ、幸せな気持ちにさせるのだと思います。
昨日の会議に集まっておられた先生方には、「先生方の子どもたちへの素敵な思いを少しずつ形にしていきながら、みんなが笑顔になれる学校や社会にしていくために頑張っていきましょう!」とお話をさせていただきました。
自分を振り返り、いつも優しい気持ちで過ごしたいと私は思います。そして、「その気持ちをカタチに」・・・