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【8月6日】原爆の日

公開日
2024/08/06
更新日
2024/08/16

校長のひとりごと

 今朝の讀賣新聞のコラム『編集手帳』からです。


 戦争は怖い、でも遠い昔の出来事に感じる…。『ぼくはうそをついた』(ポプラ社)は、そんな広島の小学生リョウタの物語だ。

 原爆の記憶を初めて語り出す祖父とふれあうなかで、今なお癒えない傷を抱えている人がいることを知り、被爆した息子を失った女性のため、ある「うそ」をつく姿を描いている。作者の西村すぐりさんは被爆2世。「原爆を書くことはつらい作業でした」と語り、執筆に30年かかったという。

 被爆者の平均年齢は85歳を超えた。私たちは、その体験を直接聞ける最後の時を生きている。リョウタの祖父のように、惨禍から長い歳月を経て紡(つむ)がれる言葉もある。聞き漏らしてはなるまい。同時に、たとえ最後の被爆者がいなくなろうとも、私たちに備わる想像力を信じたい。

 「体験しなければわからぬほど、お前は馬鹿か」。絵画で原爆の非人道性を告発し続けた丸木俊(とし)さんの言葉だ。長崎で被爆した作家の林京子さんが著作に書き留めている。核を弄(もてあそ)び、命を踏みにじる為政者たちに浴びせたい一言だろう。聖火と戦火。人間の輝きと愚かさが交錯する夏に、きょう79回目の原爆忌が巡る。


 今年も広島の平和記念公園での平和記念式典が行われました。その中で小学生の代表が「平和への誓い」を一言一言ゆっくりと力強く述べていました。


平和への誓い

 目を閉じて想像してください。緑豊かで美しいまち。人でにぎわう商店街。まちにあふれるたくさんの笑顔。79年前の広島には、今と変わらない色鮮やかな日常がありました。

 昭和20年(1945年)8月6日午前8時15分。「ドーン!」という鼓膜が破れるほどの大きな音。立ち昇る黒味がかった朱色の雲。人も草木も焼かれ、助けを求める声と絶望の涙で、まちは埋め尽くされました。ある被爆者は言います。あの時の広島は「地獄」だったと。原子爆弾は、色鮮やかな日常を奪い、広島を灰色の世界へと変えてしまったのです。

 被爆者である私の曾祖母は、当時の様子を語ろうとはしませんでした。言葉にすることさえつらく悲しい記憶は、79年経った今でも多くの被爆者を苦しめ続けています。

 今もなお、世界では戦争が続いています。79年前と同じように、生きたくても生きることができなかった人たち、明日を共に過ごすはずだった人を失った人たちが、この世界のどこかにいるのです。本当にこのままでよいのでしょうか。

 願うだけでは、平和はおとずれません。色鮮やかな日常を守り、平和をつくっていくのは私たちです。一人一人が相手の話をよく聞くこと。「違い」を「良さ」と捉え、自分の考えを見直すこと。仲間と協力し、一つのことを成し遂げること。私たちにもできる平和への一歩です。

 さあ、ヒロシマを共に学び、感じましょう。平和記念資料館を見学し、被爆者の言葉に触れてください。そして、家族や友達と平和の尊さや命の重みについて語り合いましょう。

 世界を変える平和への一歩を今、踏み出します。


 現在、パリオリンピックが行われ、毎日人間の素晴らしさ、凄さを見せられ、たくさんの感動をいただいています。しかし、そんな中でも世界を見渡せば、未だに紛争や戦争が絶えません。多くの人の命が奪われ、家も家族も平和な日常もすべて奪われていく現実があります。私たち一人一人にできることはたとえ小さくても、真剣に考えること、忘れないこと、人を大切にすること、人を思いやることなど…日常の積み重ねの中で自分ができることを実践していくしかないのだと思います。ヘレン・ケラーさんは、こんな言葉を言っています。

『一人できることは多くないが、皆一緒にやれば多くのことを成し遂げられる』

 今日は広島「原爆の日」…。改めて「平和について」「核兵器廃絶について」「命の大切さについて」、考える日でありたいと思います。