学校日記

【12月1日】花のような心

公開日
2021/12/01
更新日
2021/12/01

つぶやき

 本日の西日本新聞の「テレプラ」という読者投稿欄に福岡市の方からの投稿が載っていました。

 バスに乗ったとたんにステップにつまづいて転び、右足のむこうづねを強く打ちました。席に座ったら傷から血が流れていました。近くにいた女性がさっと、ばんそうこうを手渡してくれました。それを見ていた他の乗客からも、ティッシュなどを次々にもらいました。乗っていた短い距離の間に応急手当ができました。けがに気をとられて、お礼を言う間もなく降りてしまいました。乗客の皆さんのおかげで、本当に助かりました。

 悲しいニュースや痛ましいニュースが流れるたびに、胸が締め付けられるような気持ちになります。「なぜ、そのようなことをするのか?」「どうして、そのようなひどいことができるのか?」と疑問に思い、そして被害にあった人のこと、そしてその家族や知人の方などは、どれぐらい悲しく、苦しい思いをしているのか、もちろん加害者の家族の気持ちは…など、いろいろと考えてしまいます。
 しかし一方で、上の投稿にあるような日常的に素敵な行動をしてくださる方がたくさんいてくれることも事実なのです。目の前に困っている人がいれば、自然と手を差し伸べる人がいるのです。当たり前のように助けてくださる方がいるのです。こういう自然な優しさや気づかい、思いやりがあふれる人でありたいと思います。そして、思いやりが思いやりを生み、思いやりが広がっていく世の中であってほしいと願います。
 以前紹介した「心はだれにも見えないけれど心づかいは見える…思いは見えないけれど思いやりは見える…」の詩を書かれた宮澤章二さんの作品に次のようなものがあります。私はとても共感しましたので紹介します。何か感じていただければ幸いです…

『広野の花のように』

だれの胸の内にも恵まれているはずの
思いやりのある心は海のように豊かだから
ほんの少しの気配りであってもいいのだ

だれかがひとりぼっちのとき 声をかける
だれかがころんだとき 手をさしだす
そんな ちょっとした親切な動作も
広野の花のように明るくかおる日がある

だれも気づかぬこと に気づくのは尊い
だれもが 気づいていながらやらぬことを
思いきってやってみるのは 更に尊い

ぼくらは 歩く道で迷うことが多いけれど
迷っているまに機会は逃げてしまう
ほんの少しの気配りであってもいいのだ
花のような心を 人に向けてみないか