学校日記

【6月28日】行いをもって…

公開日
2022/06/28
更新日
2022/06/28

Kのつぶやき

 昨日朝、職員室のドアを開けて入ろうとしたとき、ちょうど女子バレー部キャプテンの大隈さんが廊下にいました。「(大会)残念だったね…でも、これまで本当によく頑張ったね!お疲れ様!」と私が声をかけると、大隈さんは、「これまで、ご指導ありがとうございました」と私にまで丁寧なお礼を言ってくれました。たいしたことは何もしていない私に、そんな感謝の言葉を言ってくれる大隈さんの姿を見ながら、本当に素敵な子だなと改めて思い、そして心があたたかくなりました。きっと、これまでバレーボールに打ち込み、バレーの技術だけでなく、人として大切なことをたくさん学び身につけてきたのだと思います。
 私はバレーボールの監督時代にいつも子どもたちに言っていました。「全国大会で優勝するチーム以外は、どこかで負けて終わる。だからこそ、それまでどれだけ努力するかが大切だ」とか、「バレーボールを将来の職業としていく人は本当にわずかしかいない。だから、バレーボールという素敵なスポーツを通して、人として大切なことを学ぶことが一番だ」、「人として学んだ大切なことは、日常生活においても、将来社会に出てもきっとたくさん役立つことがある」と。
 大隈さんだけでなく、他の子どもたちもそんなことをたくさん学んで、大きく成長しているのだろうと思います。これからも、謙虚さと学ぶ姿勢を忘れず、自分の目標に向かってひたむきに努力を続けてほしいと思います。

 さて、今朝の西日本新聞『春秋』からです。

 私は生まれてきてよかったのか…。そんな問いを抱える人への答えになるような作品を目指したと、是枝裕和監督は話す。公開中の映画「ベイビー・ブローカー」は、自分の手で育てられない赤ん坊を匿名で預ける赤ちゃんポストを巡る物語だ。家族や子どもの様々な姿を描いてきた是枝さんに今春、石井十次(じゅうじ)賞が贈られた。現宮崎県高鍋町出身、児童福祉の父と呼ばれた偉人の名を冠した賞。弱い立場の人びとにまなざしを向け続けた姿勢が評価された。
 1865年生まれの石井は87年、岡山で孤児救済の場を創設。震災や凶作で家も食料もない子を各地から受け入れた。大自然の中で暮らし学べる場をと1912年に宮崎県茶臼原(現西都市)に移転するも、わずか2年後に48年の生涯を閉じる。3千人以上を救った孤児院で石井が掲げた運営の理念12則がある。
 日々の食べ物に困らなければ子は立ち直ると考え、好きなだけ食べさせる満足主義。褒めるとき叱るときは人のいない所で1対1で行う密室主義。異年齢で共同生活させる家族主義など今に通じる考えも多い。賞は高鍋の顕彰会が30年以上続けている。近年は地域や学校の活動で活躍した地元の小中高校生を表彰する賞も新たに設け、石井の思いを継ぐ。生まれてきてよかった、と思える世の中を私たち大人はつくれているか。12則の一つに、口よりも行いをもって導け、という実行主義もある。

 石井十次さんのことは、「石井十次顕彰会」のホームページにも載っています。それによると、十次さんのお母さんも貧しい人を手助けする優しい性格で、その姿を見て育った十次さんも、困った人を見ると助けずにはいられない性格だったそうです。その性格に加え、生まれ故郷の高鍋の気風が「年長者を敬い困ったときには助け合う」という精神風土であったと言われています。次のようなエピソードが残っているそうです。
「十次が7歳のとき、母から新調してもらった帯を締めて村の祭に出かけると、神社の境内でぼろの浴衣に縄の帯を締めた貧しい友人出会う。友人は身なりのことでいじめられ泣いていた。そこで、自分の新しい帯をあげて励ました。十次からその話を聞いた母は『よいことをしたね!』と褒めた」
 その後、医者を目指し岡山に行った十次さんは、ある出会いがきっかけで孤児救済に一生を捧げることになります。「医者になる者はほかにいるが、孤児救済は自分しかできない」と経営が厳しくても情熱をもって、取り組んだそうです。もちろん、子どもたちには教育を施し、手に職をつけさせ自立へと導いたとのこと。
 フランスの思想家ルソーの影響も受け「幼児は遊ばせ、児童は学ばせ、青年は働かせる」という教育法をあみ出し、孤児院を宮崎に移してからもなお子どもたちのために必死に取り組み48歳という短い生涯を終えたそうです。その精神が今も引き継がれているのです。

 「“生まれてきてよかった”という世の中を私たち大人はつくれているか」「口よりも行いをもって導け」…考えさせられます。
 子どもたちが、「生まれてきてよかった」「出会えてよかった」「頑張ってよかった」…と思えるように、私たち大人が行いをもって導いていけたらと思います。