学校日記

【8月9日】平和の願い

公開日
2022/08/09
更新日
2022/08/09

Kのつぶやき

 8月6日は広島原爆の日、そして今日9日は長崎原爆の日です。今朝の西日本新聞に、長崎市の爆心地からわずか1.2キロで被爆した当時14歳(現在91歳)の立川裕子さんの日記の全文を収めた冊子が発刊されたことが載っていました。「ひどい目に遭ったことを自分の中で覚えておきたい」と11日までの3日間を克明に記録。原本を保管する長崎原爆資料館では、「被爆間もない時期に書かれた日記は珍しい」とのこと。以下が、当時県立長崎高等女学校3年で、学徒動員先の三菱兵器製作所大橋工場で被爆した立川さんの日記の記事です。
(※原文は『 』の部分です)

 『日記をつけようとペンを握った時 急にパッと強い光があたりにみなぎって目の前が真黄色になった』
 閃光をを浴びて気付くと建物は崩れ、がれきの下に倒れていた。血まみれの同級生と外に出ると、天も地も黒の世界。血を流した男性らが向かう方向へと逃げる。建物はつぶれ、川の向こうは火の海。道中、自らの傷の大きさに気付く。
 『血まみれの顔を触ってみるとぬるぬるとした血の中にたくさんの傷口があいている。もう目の前が真黒になってしまった。こんなに傷をうけて人前にも出られないと思うと急に悲しくなって涙がポロポロと流れた 夢であってくれ 夢であってくれ 此(こ)の悪夢からさめたならばどんなにか嬉しいことだろう』
 10日早朝、立川さんは長崎県川棚町の臨時救護所に収容され、治療を受けた。
『衛生兵は“これは僕の手には負えん”といわれたのには心細くなってしまった。傷はそんなにひどいものなのかしら?(中略)肩の傷からは大きなガラスがいくつも出た』
 体には100カ所以上の傷があり、現在も肩に四つのガラス片が残るという。全18ページの日記には、原爆投下から半年の間に思い起こしながら書き留めた。防空壕で死人のような扱いを受けたことや、救援列車内で見たもがき苦しむ被爆者の姿なども書かれている。…(後略)…

 立川さんは「同じ思いを誰にもさせないためにも、特に海外の人や若者に読んでほしい」と語っていたそうです。
 先日、広島原爆の日に被爆者の方のインタビューが流れていました。
「よく、原爆投下後の様子を“地獄絵図”のようだったと言われるが、私は地獄よりひどいと思う。黒焦げになった人の死体が死体にすら見えないような状況なのだから…」そして、「絶対に戦争はダメだ。核兵器を使うなんてもってのほかだ」と訴えていらっしゃいました。
 現在も続くロシアによるウクライナ侵攻。そして世界中で未だに続いている戦争や紛争。他国を威嚇する訓練やミサイル発射…私たちはこんな悲劇をいつまで続けるのだろうか。世界中の人が当たり前の幸せな日常を送ることができるのはいつになるのか…。
 私たちは、平和の有り難さを感じ、まずは一人一人が思いやりのある行動をとること。そして、簡単な問題ではないからこそ、一人一人が考え、振り返り、自分のできることを探して行動していくことが大切なのだと思います。
原爆や戦争による犠牲者の方々のご冥福と世界恒久平和を心より祈ります…