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【11月10日】涙

公開日
2025/11/10
更新日
2025/11/10

校長のひとりごと

 人間学を学ぶ月刊誌『致知12月号』の特集「涙を流す」というところがありましたので、前半部分だけを抜粋して紹介します。


 涙にもいろいろな涙がある。嬉しい時も悲しい時も、人は泣く。くやし涙、無念の涙もあれば、喜びの涙、感動のあまり流す涙もある。人の生は常に涙と共にあるといってもよい。心しなければならないのは悲しみの涙である。悲しみの餌食になって、人生を誤る人も多いからである。悲しみの涙といえば、忘れられない話が二つある。

 釈迦の時代に生きた人に、キサーゴータミーという若い母親がいた。ゴータミーは赤ん坊を産んだが一週間もしないうちに死んでしまった。悲しみに打ちひしがれた彼女は赤ちゃんを抱きしめて「私の赤ちゃんを生き返らせる薬をください」と村中を歩き回った。気の毒に思った村人が「お釈迦さんなら薬を持っているかもしれないから行ってごらん」と教えた。ゴータミーは森の中にいた釈迦を訪ね、生き返らせる薬をと頼んだ。釈迦は言った。

「わかった。その薬をあげよう。しかしその薬を作るには白い芥子(けし:毒性のある植物)の種が必要だから、それをもらっておいで。ただし、その芥子の種は今まで一人も死者を出していない家の芥子でなければだめですよ」。

 ゴータミーは急いで村へ帰り、家々を訪ねお願いした。どこの家も芥子をくれようとしたが、死者を出していない家は一軒もなかった。その時、彼女ははっと気づいた。

「世の中には大切な人と死に分かれていない人は一人もいない。自分一人が不幸だと思っていたが、皆、大事な人と死別した悲しみに耐えて生きている。お釈迦さまはそれを私に教えてくれたのだ」。

 そう気づいた彼女は釈迦に帰依し、立派な尼僧となった。…(後略)…


 家族や身近な人を亡くす悲しみは、どれだけ深いかわかりません。ましてや、わが子を失う悲しみはとてつもないものだと思います。しかし、そのことで絶望し、自ら命を絶つことや人生を投げ出すことは決して誰も喜ぶことではありませんし、さらに周りの人を悲しませることになります。私の義父が13年前の4月に亡くなったときの通夜で、お経をあげてくださったお坊さんがこんなことをおっしゃいました。


「今、ご家族の方は悲しみでいっぱいだと思います。こんな言葉があります…。『散る桜、残る桜も散る桜』…。きれいに咲いていた桜が少しずつ散りかけていますが、いまだにしっかりと咲いている桜もありますよね。でも、いずれはすべての桜が散ってしまうのです。一年中咲いている桜などないのです。人の命も同じです。いつ、どのような形でなくなるかは誰にもわかりません。どんなに長生きしようがいつかはなくなるものなのです。でも、人の心の中に生き続けることはできます。私たちが悲しみから立ち直り、故人が残してくれた大切なものに感謝をしながら、新たな気持ちでまた生きていくことが大切なのです」。


 その話を聞いたとき、私はこう思いました。

 すべての人の「命」にはみな「限り」がある。だからこそ、かけがえのない限られた命を大切にしなければならない。命を大切にするということは単に生きるということではなく、今を精一杯に生きること、毎日を全力で生きること…。不平不満ばかり言ったり人のせいにしたりするのではなく、前向きに生きていくことが大切。

 悲しい時、悔しい時、泣きたい時は目いっぱい泣いて泣いて…、そしてまた前を向いて精一杯に生きていく。それが大切だと思うのです。

 義父の葬儀にこられていた方が口々にこうおっしゃっていました。「誰にでも気配りのできる素敵な人でした」「とても立派な方でした。私は、本当にお世話になりました。感謝の気持ちでいっぱいです」「こんなに立派な方はいません。悲しくて仕方がありません」…、そう言いながら涙を流し、深々と頭を下げられて帰っていかれました。生前の義父の人柄を改めて知ることができたのでした。


[ひとりごと 第1110号]