最近の記事はこちらメニュー

最近の記事はこちら

【5月9日】喉元過ぎれば…

公開日
2024/05/09
更新日
2024/05/09

校長のひとりごと

 昨日5月8日の西日本新聞『春秋』に改めて考えさせられることが載っていました。

 大型連休中、テレビのニュースを見ていて改めて気づかされた。さまざまな催しで「コロナ5類移行後、初の開催」というフレーズが繰り返された。そうか、確かにまだ「初」だった、と。新型コロナウイルスが感染症法上、季節性インフルエンザ並みの5類に引き上げられて、きょうで1年になる。新型コロナについて考えること自体が減り、存在が日常から遠ざかっていた気がする。同じように感じている人も少なくないのでは。
 美術評論家の椹木野衣(さわらぎのい)さんは新型コロナのパンデミック[世界大流行]と並走するように本紙文化面で連載した。今月「パンデミックアート2020-2023」(左右社)という本になり、その前書きで「喉元過ぎれば熱さを忘れる」の格言に触れている。人類規模の大災厄(だいさいやく)を、私たちはまるでなかったかのように忘れてしまう。1世紀前のスペイン風邪もそうだった。しかし熱い物はひとたびのみ込むと、楽になったと感じても口の中をやけどしていたり、食道などを傷めて影響がじわじわ広がったりする。この格言は「なかったかのような熱さの方を思い出せ」というところまで読み取って意味を成す。忘却は時には良いことだが、今とかつての日常は違う。分かりにくい変化の方が長期的には大きな影響として出てくるはずだ、と椹木さんは記す。
 喉元に手をやってみる。忘れてはならない、と自分に言い聞かせる。

 上記コラムのようなことを私もニュースで見ました。コロナウイルスの罹患者は現在も増えたり減ったりを繰り返しているし、そのための最低限の予防はしていく必要があるとのことも専門家の方がおっしゃっていました。
 私は上記コラムの「喉元過ぎれば…」を、次のように勝手に解釈しました。
 コロナ禍は、私たちに当たり前のありがたさを教えてくれました。そして、平和な日常が当たり前ではないことも教えてくれました。学校でいうならば、子どもたちが当たり前に登校している。子どもたちと授業や様々な活動ができる。行事で盛り上がったり、協力したりすることができる。そんなことも、心から有り難いと感じたし、平和な日常を奪われていくことのつらさ、悲しさ、難しさなど…様々なことを感じることができました。
 全国一斉の臨時休校になって、自分の道具をたくさん持って、泣きながら友達や先生と別れを告げ下校していく子どもたちの姿を覚えています。あるときは、体育祭練習途中で子どもたちを体育館に集合させ、「ここまで皆さんは、今年こそ体育祭ができると本当によく頑張ってきました。しかし、突然ではありますが、皆さんの安全、命のことを考え“中止”とすることになりました。本当に申し訳ないです…」、と私は言いました。あのときの子どもたちの悲しい顔を忘れません。それ以外にも、たくさんの中止や制限、延期を余儀なくされ、子どもたちも私たち大人も悲しくつらい思いを何度したかわかりません。
 一方で、当たり前に行ってきたことを「これが本当に必要なのか」と考えさせられることもありました。そのことによって、新たな工夫をしながら改善して取り組んでいくことにも繋がりました。

 現在、グラウンドでは、子どもたちが生き生きと体育祭練習をしています。本当に幸せな光景です。ですが、先日もつぶやきましたが、世界を見渡せば、それは決して当たり前ではなく、毎日「命」の危機にさらされながら恐怖におびえている子どもたちがいます。かけがえのない命が失われる現実があります。同じ日本であっても、自然災害等で不自由な生活を強いられている子どもたちもいます。だからこそ、今こうして体育祭練習ができることは当たり前ではない。“喉元過ぎても”あのときのことを忘れず、感謝の気持ちをもって“こと”に当たりたい…そう思います。