【6月19日】平和を繋ぐ
- 公開日
- 2025/06/19
- 更新日
- 2025/06/19
校長のひとりごと
今日6月19日は「福岡大空襲」からちょうど80年となります。太平洋戦争末期1945年の今日、221機の米軍機B21が福岡市の都心部に焼夷弾(しょういだん)を投下。街は明け方ごろまで燃え、少なくとも2千人以上が死傷・行方不明となり、約1万3千戸が被災しました。現在、福岡市中心部ではワンルームマンションの建設が加速し地下も上昇、また再開発が進んで、被害の痕跡はもちろんありません。だからこそ、戦跡の保存と記憶の継承をどのようにしていくのかが私たちの課題であると思います。
今朝の西日本新聞に特集記事で体験者の方の言葉が載っていましたので、抜粋します。
◆当時13歳。6月19日の夜、父に「きょうは絶対に普通じゃない」と起こされ、家を出た。照明弾で明るい空に焼夷弾を束ねたベルトがはずれるバチーンという乙が響き、怖かった。体の不自由な母を父が背負い、姉妹4人で布団の四隅を持ち、母をかばった。浜辺の防空壕(ぼうくうごう)は膝上まで水があり、母と妹が入った。父や自分は入れなかった。翌朝、家族全員が無事で「生きとったね」と不思議だった。円応寺に重いやけどの人がおり、石塔でジャガイモを擦って手伝った。その汁を塗るのが手当てだった。全焼した自宅の釜にはご飯が残っていて、灰をよけて手づかみした。博多駅まで歩く道中、真っ黒の棒のようになった遺体に、涙が出て通れなくなった。「見るな」と言う父に従い、またいで先を急いだ。「どうしてあんなことができたのか。戦争は恐ろしい」。櫛田神社の近くも遺体が山積みだった。満杯の列車で、結婚した姉が住む佐賀へ。佐賀駅では、憲兵隊とみられる大人に「福岡の空襲の話はしたらいかん」と言われた。福岡に戻るまでの8年間ほどの生活は、言葉にできないほどの苦労だった。[入江住子さん(93歳)]
◆当時は8歳で、薬院(中央区)に住んでいた。寝ていたときに警戒音が鳴り、直後に空襲警報も鳴った。両親に起こされた直後、「ゴーッ」とB29の音がした。「今は外に出るな」。父が叫んだ。常に枕元に用意してあった着替えやコメなどを入れた袋を持ち、じっと待った。庭のモミジに焼夷弾が落ちて火がついた時「逃げるぞ」と言われた。はぐれないように、きょうだい5人で1本のひもを握った。母は生後18日の末弟を抱え、ひもを腰に巻いた。すでに周りは火の海で熱かった。「雨と思ったら全部火の玉だった」。兵士が乗った馬に火が移り、暴れた馬に蹴り飛ばされた。今でも、右腕に傷跡がある。翌朝、防空壕から出て、生まれて初めて遺体を見た。母親と赤ちゃんが折り重なり、顔は田んぼに突っ込んでいた。「今でもあの光景を鮮明に思い出します」。涙がにじんだ。自宅は焼けてしまっていた。両親に連れられて向かった薬院駅に電車は来ず、筑前高宮駅へ歩いた。列車を待つ間に、持ち出した貴重なコメで母がおにぎりを作ってくれた。「空襲をはっきり覚えている世代は私たちが最後」。だからこそ戦争ではなく、どんなに大変でも話し合いをすべきだと思う。[森総一さん(87歳)]
戦争を経験していない私たちにとっては、その想像をはるかにこえるほどの恐怖、悲しみ、苦労…があったに違いありません。二度とこんな悲惨な、非人道的な戦争を起こしてはなりません。しかし、世界を見渡せば、終わりの見えない戦争や紛争が続いている現実があります。だからこそ、私たち一人一人がこのことについて真剣に考えなければなりません。
2年生では、本日1校時に特攻隊や福岡大空襲などを取り上げた「平和学習」が行われていました(写真)。今の平和は“当たり前”ではなく、とてつもなく“有り難いこと”であるし、これからも、戦争の悲惨さ、平和の有り難さ、命の大切さなどについて、私たちは学び続け、人を大切にし、平和を守り、心を繋いでいかなければと思います。
(ひとりごと 第1041号)