【10月22日】“いのち”の尊さ①
- 公開日
- 2024/10/22
- 更新日
- 2024/10/22
校長のひとりごと
今朝の読売新聞1面の『能登 捜索諦めぬ』の記事が載っていました。
能登半島北部の記録的大雨から21日で1か月となった。これまでに14人の死亡が確認され、いまだ安否不明となっている石川県輪島市町野町の中山美紀さんの捜索が続いている。この日は、中山さんが流されたとみられる川の先にある海岸を警察官らが約40人で捜索。ドローンを飛ばしたり、流木や砂浜を棒でかき分けたりして手がかりを探した。今月17日に中山さんは32歳の誕生日を迎えた。弟の真さん(28)は「どんな形でもいいからとにかく見つかってほしい」と話していた。
輪島市役所では午前9時半から、坂口茂市長や市職員らが約30秒間の黙とうをささげ、防災行政無線を通して市民にも追悼を呼びかけた。輪島市では9月20日~22日、月の平均値の2.3倍の雨が降った。元日の能登半島地震で地盤が緩んでいた影響もあり、同市や珠洲市などで1400棟以上の住家被害が出て、400人以上が避難生活を送っている。
「どんな形であっても…」、ご家族の思いはいかばかりか。胸が痛みます。一日も早く見つかってほしいとただただ願います。
また、先日のニュースでは、珠洲市大谷地区の仮設住宅の完成が、水害により3か月遅れることになったとか、浄水場が土砂で埋まり断水が続いているところもあるとの報道がなされていました。本当に日々の当たり前の生活を送ることができない方々がおられる現実を忘れてはならないと思います。
先日の出張で私は、宮城県気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館や南三陸町などに行き、震災や防災について学んできました。震災遺構として残された旧 気仙沼向洋高校、そして併設された伝承館では、津波等の映像を見せていただいたり、語り部の方の説明を聞きながら校舎の中の様子を見せていただきました(震災遺構は、毎年夏、大野城市の中学生が被災地派遣研修として訪れお世話になっているところです)。校舎は、津波により窓枠も流され、様々なものが破壊され、3階には流されつぶれた車まで残っていました。家も街も人々の命も思い出も奪っていった津波。生き残った方々は、近くの階上(はしかみ)中学校などを避難所として、助け合い、励まし合い頑張って生きてきたとおっしゃっていました。避難所では、中学生が大きな力となっていたことも教えてくださいました。たいへん寒い3月、教室にかかっていたカーテンをもってきてお年寄りにかけていた中学生。中には、自分の着ていたジャージを脱いで、お年寄りの方に着せていた中学生もいたそうです。悲しみや絶望感の中で、中学生の行動や言葉がどれだけ多くの人の力になったかとおっしゃっていました。
しかし一方で、震災から13年以上が経ち、だんだんと薄れていく現実もある。遺構として残しているものも劣化し崩れていく。そうすると見ることもできなくなるし、残すことができない。また、震災を知らない子どもたちが増えていく中でどう伝えていくか…「劣化と風化をどうするかがこれからの大きな課題です」とおっしゃっていました。
私は、2015年に仙台市を訪れました。現在は震災遺構として整備されていますが当時は柵がされていた荒浜小学校やその周辺の見学させていただきました。津波によって、ほとんどの窓ガラスが割れている校舎ガラス、斜めに倒れた木や、家の基礎だけたくさん残っているところを歩きながら思いました。震災前には、平和な日常、当たり前の幸せがここにあったのだと想像し、胸が締め付けられる思いがしました。
当たり前に感謝、日常に感謝、私を生かしてくれているたくさんの方々に感謝することを決して忘れてはいけないと思います。
【写真上】旧 気仙沼向洋高校の教室
【写真中】13mを超える津波によって向洋高校3階の教室まで運ばれた車
【写真下】上側がすべて津波で流された向洋高校体育館
南三陸町で学んだことは明日、お伝えします。