【10月23日】“いのち”の尊さ②
- 公開日
- 2024/10/23
- 更新日
- 2024/10/23
校長のひとりごと
気仙沼の次に訪れた宮城県南三陸町では、震災を経験した当時、病院に勤められていた方の話を聞きながら、震災関連施設などをまわりました。少し高台にある、旧 戸倉中学校(現 戸倉公民館)には、山側からきた津波と海側からきた津波が合わさり、最大22.6mの津波となって襲ってきたそうです。当初、グラウンドに避難していた子どもたちや先生は、ここでは危なそうだとのことで、さらに山手に避難し、助かったそうです。グランドにそのままいたら恐らく…。山手に逃げていた子どもたちの中の野球部5、6人は、「助けて」と聞こえたので、流されていたお年寄りの方を助けたとのことでした。流されていたもう1人の方は、引き上げることができず、目の前を流されいくのを見送るしかなかったとも…。どんなにつらかったでしょうか。
また別の場所では、小学生の子どもたちが高台にある神社へ避難。暗くなり寒くて怖くて泣き始める低学年の子どもたち。それを見た小学6年生の子どもたちが翌週の卒業式で歌うはずだった『旅立ちの日に』を夜通し歌うなどして慰めたとの話も…。
語り部の方は、地震が起きたあと、真っ先に高台の小学校へ避難し助かったそうです。家も失い、仕事も失い、食べるものもない…途方に暮れる中、1週間ほどは涙も出なかった。ほどなくして、両親が三日以上歩き続け避難所をまわり、私を見つけてくれた。泣く姿を一度も見たことがなかった父が号泣し、母親には泣きながら「生きててくれてありがとう」と言われ、ただ抱き合い、生きていることを喜んだ。でも、勤めていた病院の医院長の方は未だに行方不明のまま。当時は「あなただけ、逃げるなんて…」と誹謗中傷されたことも。つらくて苦しくて、命を絶とうと思ったこともある。でも、家族のためにも生きなければならない。この命を大切にしなければ…、だからこそ自分ができることを…と。できるときにはこの「語り部」の仕事をして、命の大切さや当たり前の大切さを伝えて、皆さんのお役に立ちたいと話されました。その方は最後に、こうおっしゃいました。
「皆さん、“がれき”って言うでしょう?でも、被災した私たちにとっては“宝物”もたくさんあるんです。私たちは家だけでなく、大切な写真も思い出の品も全部流されました。どんなに道が整備されても復興や復旧が進んでも、心の復興が進まず今も苦しんでいる人もいることを忘れないでほしいです。なぜ、“お母さんは亡くなったの?”とずっと思い悩んでいる人もいます。私は娘や両親、家族のためにも、生きててよかったと思います。今、生きていることが本当にありがたいです。そして、日常の当たり前がいかに幸せかを感じています。皆さんには、命の大切さを改めて知ってほしいし、日常の当たり前を大切にしてほしいと思います」
と。この方の娘さんは、看護師になるため東京の学校へ行き、現在は地元に戻り「海の見えるところで、地元の方の役に立ちたい」と看護師をされているそうです。それが何より嬉しいともおっしゃっていました。
今、生きている。それだけでこんなにありがたいことはない。平凡な日常、当たり前の毎日がいかに幸せか。そして、目の前に素直で優しくて頑張り屋の子どもたちがいて、一緒に泣いたり笑ったり感動したりすることができる。こんなに素敵なことはない。
子どもたちにも平和な日常、当たり前の大切さ、素晴らしさを伝えながらこれからも子どもたちの笑顔と未来のために、私自身も頑張っていかなければと思った研修でした。たくさんのことを学ばせてくださったすべての皆さんに心から感謝いたします。本当にお世話になりました。そしてありがとうございましたm(_ _)m
【写真上】津波被害にあって現在は戸倉公民館となった、旧 南三陸町立戸倉中学校にある閉校記念碑
【写真中】かつては結婚式場として利用されており、震災では最上階まで津波に襲われたが、従業員らの適切な判断により屋上に避難した約330名が助かった高野会館(南三陸町の民間所有の震災遺構)
【写真下】南三陸町防災対策庁舎 15.5メートルの津波により、第1庁舎および第2庁舎は流失し、防災対策庁舎は骨組みと各フロアの床および屋根等を残して破壊。危機管理課の職員・遠藤未希さん(24歳)は、逃げることなく仕事を全うし繰り返し避難を呼びかけ続け、その結果、津波に飲まれ殉職。