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【3月11日】忘れない…

公開日
2024/03/11
更新日
2024/03/11

校長のひとりごと

 本日、東日本大震災からちょうど13年目となりました。本校でも先ほど、主幹教諭の堤佳代先生が、14時40分すぎに次のようなことを放送で話し、14時46分、大野城市のサイレントともに黙祷を捧げました。

 2011年3月11日、東日本大震災をもたらした巨大地震が発生しました。三陸沖を震源とするこの地震の規模は、観測史上最大となるマグニチュード9.0でした。戦後最大の自然災害であり、全世界でみても、1900年以降4番目の巨大地震となるものです。この地震では宮城県北部で最大震度7が観測され、福島県相馬市では最大潮位9.3m以上の大規模な津波も記録されました。死者1万5900人(関連死を含むと1万9702人)、行方不明者2520人という甚大な被害をもたらした大地震が、13年前の今日、この時間に起きたのです。今もなお2万9000人が避難生活を余儀なくされています。
 金曜日、本校では第53回卒業式が行われました。式の中で、3年生が「群青」という曲を歌いました。この曲は震災にあった福島県相馬市立小高中学校の生徒と答辞の音楽の先生が、震災によって友人を失ってしまった悲しみと、原発事故によって全国に離ればなれになった仲間を想い、作ったものだそうです。曲の中に、「“またね”と手を振るけど、明日も会えるのかな。遠ざかる君の笑顔 今でも忘れない」という歌詞があります。震災によって、いのちを失い、家族を失った人がいたこと、ふるさとから離れなければならなくなった人がいたこと、そしてそこから立ち上がろうと一生懸命に生きてきた人たちがいたことに想いをはせながら、全校で黙祷を捧げたいと思います…

 私は、2014年夏につくば市で行われた研修に1ヶ月ほど参加しました。そのとき、土日の休みを使って、福岡県内の先生8名で1台のワゴンを借りて、仙台市の荒浜地区周辺に行きました。海岸近くには4階建ての荒浜小学校がありましたが、荒浜小学校にも海岸沿いにも柵が建てられ、立ち入り禁止の状態でした。現在、荒浜小学校は震災遺構として残され、見学もできるようになっています。
 震災から3年以上が経っていましたが、そこに到着するまでも、壊れた家や建物がかなり残っていました。あんなに高いところまで津波が来たのかと、想像しただけで恐ろしくなったのを覚えています。また、一面原っぱのような海岸付近を散策したのですが、ふと下を見ると家の「基礎」だけがたくさん残っていました。津波によって、荒浜地区の家はほぼ流されていたということです。ここにたくさんの家と日常の当たり前の生活、家族の幸せがあったはずなのに…そう思うと、胸が苦しくなりました。海岸付近には当時の写真が飾っているところや慰霊碑もありました。私たちは手を合わせ、祈りました。往復600キロほどの道のりでしたが、皆それぞれに、「私たちは恵まれている。もっと当たり前に感謝しなきゃ」とか、「いつ、どこで起きるかわからない自然災害。備えをしなきゃ」、「時間がない中でも来てよかった。大切な時間だった…」などと感想を述べあいました。往復600キロの道のりでタイトなスケジュールでしたが、自然の脅威、命の大切さ、生きていることへの感謝、人を思い遣ることの大切さ、「備え」の大切さなどたくさんのことを学ぶことができました。

 年々、東日本大震災を知らない世代への伝承が課題となっています。少しずつ“風化”してきているのではとの懸念も出ています。しかし、一方で震災の“語り部”として活躍している高校生や大学生、(今朝の西日本新聞には)小学4年生の佐々木智桜(ささきちさ)さんのことが載っていました。そんなことを聞くと、改めて子どもたちのたくましさや素晴らしさを感じます。

 未だに、2520人の方が行方不明です。関連死を含めれば亡くなられた方は1万9702人もいらっしゃいます。その一人一人に家族がありその数だけの幸せがあったのです。それを一瞬にして奪った大震災。そして今も決して消えることのない深い悲しみや寂しさ、後悔…。私たちは決して「他人事」で済ませてはいけないのだと思います。だからこそ、伝え続けなければならないと思います。
 今日という日に感謝しつつ、亡くなられた方々へ、心からの追悼の意を捧げます…